モーツァルトは、27ものピアノ協奏曲を書いた一方、ヴァイオリン協奏曲はわずか5曲しか残していません。
そしてそれらは、207, 211, 216, 218, 219というケッヘル番号が示している通り、第1番のみが1773年に、残りは1775年に、一気呵成といった感じで書かれました。
つまり、この天才作曲家が少年から青年へと移行する時期に集中して生み出されたわけですが、それ以降、このジャンルの顧みられることはありませんでした。
不思議と言えば不思議です。
また、一連のヴァイオリン協奏曲の作曲動機も明らかでなく、故郷ザルツブルクの宮廷楽団に籍を置いていたヴァイオリン奏者アントニオ・ブルネッティのため、あるいはモーツァルトが自身で演奏することを想定して書かれたのではないかとの推定はなされているものの、これを裏付ける資料等は知られていません。
確かに、モーツァルトが特定の奏者のために曲を書いた例は数多知られていますが、献呈の意図なくしてこのように作品「群」が成されたとは考えにくく、またそれがあったら何らかの記録が残るのが普通――
と、はっきりしないことが多いのです。
モーツァルトがまだ芸術家として自立しておらず、レオポルトの影響が強く及んでいた時期に書かれた点を重く見れば、父親の忠告、指示、あるいは命令が直截の契機だった可能性もあり得るでしょう。
さて、そのように些か謎を秘めたヴァイオリン協奏曲の最後を飾る第五番は、しばしば"トルコ風"との標題を付されますが、これは、最終楽章の間奏部として、文字通りトルコの音楽を連想させる律動・旋律を採り入れているためです。
16世紀、オスマン帝国が中・東欧を席巻して以来、オーストリアとの間でも数度に亘って戦争を来たし、ヨーロッパの人々の心には、この帝国に対する憎悪・恐れと同時に、それらに対照する関心・憧れといった感情が育ち、モーツァルトの生きた18世紀には、さまざまな領域でテュルクリ(Turquerie)と呼ばれるトルコ風異国趣味が広まっていました。
この嗜好は音楽においても見られ、先にご紹介したヨーゼフ・ハイドンの実弟、ミヒャエル・ハイドンは、オスマン帝国に対する前哨線ともいえるハンガリーで活動した経験もあってか、トルコ風の作品を少なからず書いています。
そして、ミヒャエルと親交のあったモーツァルトも、その影響を受けたのでしょう、いくつかの作品にトルコ風の味付けをしていることは、みなさんご存じのとおりです。
そこに一般聴衆の「受けを狙う」意図もあったことは間違いありませんが、徒な大衆迎合のために異国情緒を借用したのではなく、あくまで素材は自らの楽才に求め、全体としては誰もが「モーツァルトの作品」と一聴して認識できるものに仕上げられていることは、忘れるべきではないでしょう。
このK.219を初め、ピアノソナタのK.331(300i)もそうですし、オペラ「後宮からの誘拐 K.384」もまた然りです。
ヴァイオリン協奏曲 第5番 イ長調 K.219 "トルコ風"
第楽章 アレグロ・アペルト(Allegro aperto)
第楽章 アダージョ(Adagio)
第楽章 テンポ・ディ・メヌエット―アレグロ(Tempo di menuetto - Allegro)
https://www.youtube.com/watch?v=4mNJ43S1RIQ