Mozartゆかりの都市(8)―ライデン、ハーグ、アムステルダム
1765年7月24日、モーツァルト一家は一年三ヵ月に亘り滞在したロンドンを後にし、リール、ヘント、アントワープを経てオランダに入り、ライデン、ハーグ、アムステルダムといったオランダの都市に合わせて半年ほど留まりました。
もっとも、このオランダへの立ち寄りは元々の計画に含まれていたことではなく、レオポルトが予定を変更して彼の地への訪問を決心したのは、オランダ駐英大使を通じて若きオラニエ公ウィレム5世の懇請を受けたためでした。
それがさらに思いもかけぬ長期滞在となってしまったのも偶然の産物で、9月にハーグへ到着してすぐ、姉ナンネルが重いチフスに罹って一時は意識不明の重体となり、11月にはヴォルフガングも同じ病を得、家路を急ぐどころではなくなってしまったからです。
17世紀初頭にポルトガルの東洋貿易独占を打破して商業領域における王座についたオランダは、織物、貴金属細工、製陶などの産業を育成すると同時に、文化の面でも世界の中心地として隆盛を極め、特に絵画においては、16世紀のボス、ブリューゲルの築いた土壌の上に、レンブラント、ヤン・ステーン、ロイスダール、そしてフェルメールといった画家たちが大輪の花を咲かせました。
しかしそんな強国でも――というより強国だからこそ――栄枯盛衰の理を免れることはできず、18世紀に入ると世界の覇者としての地位をイギリスに奪われてしまったことは歴史の教えるところです。
そんな時代、しかも元々音楽にそれほど華々しい光彩を放っていたわけでもないこの地に、本意ではない足止めを食ったモーツァルト一家ですが、彼らに対する処遇は好意的だったようで、レオポルトもこれに関しては満足の気持ちを抱いていたようです。
実際、ハーグに着くと、そこにはオラニエ公の遣わした絢爛たる馬車が待っており、姉弟の病が癒えた後には二度に亘って演奏会も行われました。
これに呼応するかのように、モーツァルトは好意を寄せてくれた貴顕に対する音楽的捧げものとしての作品をはじめ、次のようにさまざまなジャンルの曲を書き上げています。
・交響曲 第5番 変ロ長調 K.22
・交響曲 ト長調 K.45a(Anh.221) "ランバッハ"
・アリア「願わくは、いとしい人よ」 K.78(73b)
・レチタティーヴォとアリア「おお、大胆なアルバーチェよ。この父の抱擁ゆえに」 K.79(73d)
・グラーフの主題による8つのピアノ変奏曲 ト長調 K.24(Anh.208)
・ナッソーの主題による7つのピアノ変奏曲 ニ長調 K.25
・6つのピアノとヴァイオリンのためのソナタ (KK.26-31)
・混成曲 ヘ長調 "ガリマティアス・ムジクム" K.32
この最後のK.32は、モーツァルトとの邂逅を熱望した当のオラニエ公が18歳に達してオランダ総督へ就任したことを祝う宴を飾るべく、食事の際に奏されるターフェル・ムジーク(食卓音楽)として書かれたものと考えられており、当時広く知られていた肩肘張らないいくつもの曲を素材として見事に構成されています。
自筆譜には幼いモーツァルトの筆跡とともにレオポルトの手になる記譜もあり、何とか公の恩寵を賜わろうとの思いが窺われると言えるでしょう。
結局、ここでもまたその目論見は果たせませんでしたが、小さいながら印象的な作品群が残され、それらが絢爛なあるいは壮大な音楽の芽の一つとなったのです。
https://www.youtube.com/watch?v=2AjmqB0_-z0