モーツァルト・カフェ|名曲・おすすめ作品・エピソードなど

不世出の天才作曲家W.A.モーツァルト。その名曲・代表作・おすすめ作品をはじめ、生涯や音楽上のエピソードなどをご紹介します。

Mozartゆかりの都市(6)―パリ

実質的な世界大戦となった七年戦争終結を見て間もない1763年6月9日、レオポルトは7歳のヴォルフガングと姉ナンネルの楽才を広く世に知らしめようとの目的を胸に抱いて、一家揃ってのいわゆる「西方への大旅行」に出発し、ミュンヘン・フランクフルト・アントワープブリュッセルを経て、同年11月19日、パリへと足を踏み入れました。

 

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フランスを大国たらしめた絶対王政の内包するさまざまな矛盾や歪みが七年戦争に破れたこともあって顕在化すると同時に、新興ブルジョワ階級に代表される市民の権利意識の高揚により、社会的不安が疼き始めていたとはいえ、当時のパリは、文化の面ではまだヨーロッパ第一の都市、花の都の面目を保っていました。

 

これは音楽についても同様で、数多の作曲家や演奏家がこの地へ集うとともに、定期的にテュイルリー宮殿内のスイス人百人ホールで開催され、ヨーロッパ各国の公開演奏会・組織のモデルともなった「ル・コンセール・スピリチュエル」では、宗教曲をはじめとして、管弦楽から室内楽まで、さまざまな音楽が奏でられていました。

 

テュイルリー宮殿

 

そこへ姿を現したヴォルフガングは、パリで「文芸・哲学・批評通信」を主催していたドイツ出身のフリードリヒ・メルヒオール・フォン・グリムによる、同誌上での紹介やルイ15世の御前演奏の取り計らいもあり、人々の喝采と収入を手にすることができましたが、如何せんまだ幼過ぎ、具体的な地位を得るには至らず、また、ものされた作品もごくわずかでした。

 


そして翌1764年4月10日パリを後にし、ドーヴァー海峡を渡ってロンドンを訪れて一年三ヵ月あまり滞在した後、欧州大陸へ戻ってカレーからオランダへ向かい、1766年5月、再びパリに立ち寄りましたが、この時は二ヶ月の滞在に過ぎませんでした。

 

 

 

 


それから11年あまり後の1777年9月23日、かつての神童はその天才の輝きを失うことなく、寧ろそれに一層の磨きをかけた青年音楽家として、マンハイム・パリ旅行へ向かいます。

 

この時の目的も就職活動、音楽界における地位の獲得でしたが、同伴者は前回とは異なり母親一人だけでした。

 

同様な機会には常に一緒だったレオポルトを欠いた理由は、ザルツブルク大司教に休暇と旅行の許しを願い出たところ、その許可とともに解雇も通告されたため、そのショックで旅行どころではなくなったのと、大司教の怒りを鎮めるべく、旅行の申請を取り下げたからかもしれません(実際、その後解雇も取り消されています)。

 


ともあれ、ミュンヘンアウクスブルクと辿ってマンハイムへ達し、ここに四ヶ月半滞在した後、パリへは1778年3月23日に到着しました。

 

やがて革命の勃発することになるパリは、モーツァルトが前回訪れた時に比べ、社会の各面で不穏な気配が濃くなっており、マリア・アンナは手紙で、物価の高さについての不満をザルツブルクへ書き送っています。

 

肝心の就職活動の方も、国王ルイ16世はじめ貴族たちからの招きはなく、また、当てにしていたル・コンセール・スピリチュエルの反応も暖かいものではありませんでした。

 

その逆境を打開すべく、次に挙げるような優れた作品群を信じられないほどの速さで次々と書き上げますが、これも遺憾ながら奏功しませんでした。

 

・管楽のための協奏交響曲 変ホ長調 K.297B(Anh.9)
・フルートとハープのための協奏曲 K.299(297c)
・「私はランドール」の主題による12の変奏曲 変ホ長調 K.354(299a)
交響曲 第31番 ニ長調 K.297(300a) "パリ"
レチタティーヴォとアリア「不滅の神々よ、私は求めず」 K.316(300b)
・ピアノとヴァイオリンのためのソナタ 第28番 ホ短調 K.304(300c)
・ピアノ・ソナタ 第8番 イ短調 K.310(300d)
・ピアノとヴァイオリンのためのソナタ 第30番 ニ長調 K.306(300l)

 

 

 

 


そんな失意のヴォルフガングに、さらに大きな不幸が追い打ちをかけます。

 

1778年7月3日、母マリア・アンナを亡くしたのです。

 

まさに弱り目に祟り目ともいえる状況の下、唯一の光明は、ル・コンセール・スピリチュエルの長ル・グロの依頼を受けて作曲した「交響曲 第31番 ニ長調 K.297(300a)」が6月8日にテュイルリー宮で演奏され、非常な喝采を博したことでしょう。

 

交響曲が「パリ」と呼ばれるのは、これに由来しています。

 

故郷の父への手紙でそのことを誇らしげに報告するとともに、他のほとんどすべてが不如意に終わったにもかかわらず、ザルツブルクへは帰りたくないとの気持ちを伝えましたが、レオポルトの厳命で9月26日にパリを去り、以後二度とこの地を踏むことはなかったのです。

 


その11年後の1789年、ご存じのようにフランス革命が起こり、かつて束の間ながらそこで栄光に浴したル・コンセール・スピリチュエルも、1791年に一度終焉を迎えました。

 

モーツァルトが世を去ったのもこの年です。

 


交響曲 第31番 ニ長調 K.297(300a) "パリ"
第1楽章 アレグロ・ヴィヴァーチェ(Allegro vivace)
第2楽章 アンダンテ(Andante)
第3楽章 アレグロ(Allegro)

https://www.youtube.com/watch?v=CShEPvBf048