モーツァルト・カフェ|名曲・おすすめ作品・エピソードなど

不世出の天才作曲家W.A.モーツァルト。その名曲・代表作・おすすめ作品をはじめ、生涯や音楽上のエピソードなどをご紹介します。

弦楽四重奏曲 第14番 ト長調 K.387 "春" (ハイドン・セット第1番)

先に「モーツァルトの弦楽四重奏曲」でご紹介した通り、ヴォルフガングは1770年、14歳の時に、最初のイタリア旅行の道中、ローディという土地で、このジャンルにおける第1作「ト長調 K.80(73f)」を作曲しました。

 

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さらに、1772年に行った第3回イタリア旅行の際、ボルツァーノまたはヴェローナで、現在「ミラノ四重奏曲」と呼ばれる第2番から第7番までの6曲の連作を物しますが、同行していた父レオポルトはその契機を、「…ヴォルフガンクはあんまり退屈なので弦楽四重奏曲を書いています…」とザルツブルクの家族へ書き送っていることも述べました。

 

 

 


一方この年、ヨーゼフ・ハイドンは、「太陽四重奏曲、独:Sonnenquartette」として知られる、やはり6曲からなる弦楽四重奏曲集「作品20」を世に送り出しました。

 

この、オーストリアの偉大な先輩にして古典派を代表する作曲家の作品は、両モーツァルト、特にレオポルトに大きな衝撃を与えたようで、翌1773年、ウィーンへの旅行へ出掛けるに際し、ヴォルフガングに、作曲家としての力量を培うべく、このジャンルの作品を書くよう命じ、その結果として、第8番(K.168)から第13番(K.173)までの「ウィーン四重奏曲」が生まれたのです。

 

その後10年近く、ハイドンはこのジャンルとは距離を置きましたが、まるでそれと歩調を合わせるたかのように、モーツァルトもまた弦楽四重奏曲に手を染めることはありませんでした。

 

しかし1781年、ハイドンは満を持したかの如く、このジャンルの様式を完成させたといわれる「ロシア四重奏曲集(作品33)」を作曲して、翌年出版。

 

すると再び、モーツァルトはこれに深い感銘と大きな啓発を受け、1782年の暮れから翌々年まで、足掛け3年の長きに亘って刻苦勉励を重ねた末、全音楽史を通じても最高の弦楽四重奏曲群を書き上げました。

 

すなわち、ト長調 K.387、ニ短調 K.421(417b)、変ホ長調 K.428(421b)、変ロ長調 K.458、イ長調 K.464、ハ長調 K.465からなる「ハイドン・セット」です。

 


モーツァルトの天才については、様々な逸話が虚実取り混ぜて語られていますが、その一つに、作曲はすべて頭の中で完成し、あとはそれを楽譜に記すだけだった――というものがあります。

 

これは真とも偽とも言うことができ、確かにそのようにして書かれた作品も少なくないでしょうけれど、短い生涯の最後の10年、ウィーンに居を構えてからは、自筆譜に少なからぬ推敲の跡が見られるのも、また事実です。

 

ハイドン・セットもその例外ではなく、特に第1から3番までにはそれが顕著で、偉大な先輩の作品を研究し、その真髄を抽出し、さらに独自の高みへと昇華させる努力が如実に看取できます。

 

 

 


さて、ハイドン・セットの第1番、「弦楽四重奏曲 第14番 ト長調 K.387」は、1972年の12月31日、大晦日に産声を上げました。

 

その冒頭、揺るぎない自信に裏打ちされた決然たる旋律は、このジャンルの新たな幕開け――春の到来を高らかに告げる弦楽ファンファーレを想起させ、これが標題の由縁となっているのです。

 

そして第1楽章の後には、翳りを含んだメヌエットが置かれ、さらに静謐な緩徐楽章が続いて、最後はジュピター音型を採る、フーガとソナタを統一したフィナーレで締めくくられます。

 

各楽章、全て斬新でありながら至高の完成度を示し、全体としての有機的統一感も実に見事。

 

音楽史を画する作品だけに、数多の名演が聴かれるのも当然と言えましょう。

 

ここではその一つ、私が初めてこの曲を聴き、そして魅了されることとなった、アルバン・ベルク四重奏団の演奏をご紹介して本稿を終えたいと思います。

 


弦楽四重奏曲 第14番 ト長調 K.387 "春" (ハイドン・セット第1番)
第1楽章 アレグロ・ヴィヴァーチェ・アッサイ(Allegro vivace assai)
第2楽章 メヌエット:アレグレット(Menuetto: Allegretto)
第3楽章 アンダンテ・カンタービレ(Andante cantabile)
第4楽章 モルト・アレグロ(Molto allegro)