モーツァルトの作品のなかで、派手さはないものの極めて重要な位置を占めるジャンル……
と言えば、それは弦楽四重奏曲でしょう。
モーツァルトは、全部で23曲の弦楽四重奏曲を残し、作曲年代は1770年から1790年にわたっています。
因みに、他の弦楽室内楽曲としては、いくつかの二重・三重奏曲と6曲の五重奏曲があり、重要度の高い後者もまた、1773年-1791年と、モーツァルトの青春時代から最晩年まで、作曲家として活躍した全期間を通じて手がけられたという特徴を四重奏曲と共有しています。
四重奏曲に話を戻しましょう。
1770年、14歳の時に、モーツァルトは最初のイタリア旅行を行いましたが、その際、ローディという土地で記念すべき「第1番 ト長調 K.80(73f)」を作曲しました。
その後、もう一つのイタリア旅行を間に挟み、1772年に第3回イタリア旅行へ父親レオポルトとともに出発します。
これは、ミラノ宮廷から依頼されたオペラ「ルーチョ・シッラ」を上演するための旅行でしたが、そのときレオポルトはザルツブルクの家族に宛てて次のように近況を報告しています。
…ヴォルフガンクはあんまり退屈なので弦楽四重奏曲を書いています…
現在「ミラノ四重奏曲」と呼ばれる第2番から第7番までの6曲の連作、後の傑作群の萌芽は、ミラノでの「退屈さ」から生まれ出でたというわけです。
このミラノ四重奏曲は、イタリアの弦楽四重奏曲の影響を強く受けており、3楽章からなるそのスタイルも基本的にイタリアのものを踏襲しています。
さらに、ミラノ四重奏曲からそれほど間を空けずに、モーツァルトは再び6曲の連作を作曲します。
これらも作曲地の名前を冠して「ウィーン四重奏曲」と総称されていますが、作曲の契機は退屈さではなく、同郷の先輩作曲家ヨーゼフ・ハイドンの作品9, 17, 20に触発されて生み出されました。
ウィーン四重奏曲はすべて4楽章からなり、始めと終わりが急速楽章、中間の2つの楽章には緩徐楽章とメヌエットが順不同でおかれるという、ハイドンが確立したスタイルをとっており、この後のモーツァルトの弦楽四重奏曲の基礎ともなりました。
そして、ウィーン四重奏曲からおよそ10年を経た、1782年の末から1785年にかけて、モーツァルトの弦楽四重奏曲の中で最も完成度が高く、また有名な「ハイドン四重奏曲(ハイドン・セット)」が作曲されたのです。
ハイドンは、弦楽四重奏曲の集大成ともいうべき作品33「ロシア四重奏曲」を1781年に完成し、翌年に出版しており、ハイドン・セットもまた、先のウィーン四重奏曲と同様、このハイドンの作品から強い刺激を受けました。
作品内容から看取される印象がそれを物語るだけではなく、モーツァルトがハイドン・セットを1785年に出版する際、この先達への敬意を込めて自作の献辞を添えていることが、それを明確に裏付けています。
一方、ハイドンの方は、モーツァルトのこの作品を聴いて、「仮にモーツァルトが弦楽四重奏曲とレクイエム以外の作品を残さなかったとしても、彼の名は不滅のものとなっただろう、」と評したと伝えられています。
ところで、ハイドン・セットで最高峰を極めた感が強いため、見落とされがちですが、モーツァルトはその後にも4曲の弦楽四重奏曲を書きました。
まず、「ホフマイスター」と呼ばれる1786年の「第20番 ニ長調 K.499」。
それから、チェロの名手だったプロシア王ヴィルヘルム・フリードリヒ2世のために書いた3曲の連作「プロシア王セット」がそれです。
では、今回も最後に動画を一つご紹介して稿を終えましょう。
それは、私が一番好きなモーツァルトの弦楽四重奏曲であるハイドン・セットの5番、すなわち「第18番 イ長調 K.464」です。
強い個性を具えた第17番「狩」、第19番「不協和音」に挟まれていることもあり、ハイドン・セットの中では一番地味かもしれません。
しかし、モーツァルトの「天国の調」たるイ長調で奏される、霞がかったような独特の静かな美しさに、思わず酔い痴れてしまう方は少なくないはずです。
☆弦楽四重奏曲 第18番 イ長調 K.464
第1楽章 Allegro(アレグロ)
第2楽章 Menuetto(メヌエット)
第3楽章 Andante(アンダンテ)
第4楽章 Allegro non troppo(アレグロ・ノン・トロッポ)