前々回、および前回に取り上げた2つの交響曲、すなわち「第25番 ト短調 K.183(173dB)」と「第29番 イ長調 K.201(186a)」の間に、モーツァルトは別ジャンルにおいても一つの金字塔を打ち立てています。
今回はその作品、「ピアノ協奏曲 第5番 ニ長調 K.175」をご紹介することにしましょう。
モーツァルトは1767年、まだ11歳の時にこのジャンルに足を踏み入れ、K.37, 39, 40, 41とケッヘル番号を付された第1-4番をものしており、さらにその後、「3つのピアノ協奏曲」と呼ばれるK.107も書いています。
しかし、これらはいずれも、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ、ヨハン・ショーベルト、ヨハン・クリスティアン・バッハといった同時代の作曲家のクラヴィーア・ソナタなどに管弦楽パートを加えた編曲作品でした。
従って、「第5番 ニ長調 K.175」が、ピアノ協奏曲における実質的な処女作となる訳ですが、ここでもまた例によって例の如く、初めて筆を染めたジャンルの作品とは到底思えない、高い完成度を示しています。
本作の前後に位置する交響曲や弦楽四重奏曲の作曲経験を通じて自家薬籠中のものとした、ソナタ形式に対する十全な理解と自由闊達な書法が現出する構成美という土台の上に、協奏曲の欠くべからざる要素である華やかな様式美が見事に融合されており、無論、この天才の後期の大協奏曲群と並べれば些かその光彩を失いはするものの、かつて手本とした作曲家たちの作品はすでに凌駕していると言ってよいのではないかと思います。
作曲の動機については明らかになっていませんが、モーツァルト自身、あるいは姉ナンネルによる演奏を想定したものではないかと考えられており、祝祭の調である二長調を採り、さらにトランペットとティンパニを擁することを併せ鑑みると、何らかの具体的機会を彩るための作品だったのかもしれません。
その機会はさておき、モーツァルトが本作に対して大きな自負と深い愛着を示していたことは、その後度々このニ長調協奏曲を演奏したという史実から窺うことができます。
また、その際に加筆の行われたことも知られており、まず1777年頃、オーケストラ部に手が加えられ、さらに1782年には、ウィーンのブルク劇場で3月に予定された演奏会のため、別の、新しい終楽章としてロンド(K.382)が書かれました。
この、ウィーン聴衆の嗜好を念頭に置いたロンドを伴う演奏は大成功を収め、モーツァルトはその楽譜をザルツブルクのレオポルトへ送った際、添えた手紙に「このロンドは僕かお姉さん(ナンネル)のためのもの、他のどんな人にも弾かせないでください」と認めていることから、如何に本作の出来栄えとそれがもたらした喝采に対し大きな満足感を覚えていたかがわかります。
ところが、今、それら二つの終楽章を聴き比べてみると、独立した楽曲としても、また協奏曲のフィナーレとしても、オリジナルの方に分があるように感じられてなりません。
これは独り私の個人的印象ではなく、現代の多くの演奏家や評論家といった人たちも同じ意見のようです。
無論、如何な天才モーツァルトといえども、聴衆の好みをまったく考慮せずに作曲することはなく、またできなかったでしょうけれど、単に人口に膾炙したというだけで有頂天になったとは考え難く、上の満足は、真に心からのものだったのでしょう。
しかし一方、モーツァルトのそれ以後の作品が、遍くこのロンドの情調に即したものに変化したわけでないことは誰の耳にも明らか。
これらを総合するに、K.382は、当時のウィーン人士の趣味と共鳴してそれを激しく掻き鳴らしたものの、彼らの琴線の波長は間もなく変化してしまった――ということなのでしょう。
18世紀後半の一時期にウィーンを席巻し、一般民衆は固よりモーツァルトさえ飲み込んでしまったそんな趣味思潮――おそらく、時間的にも空間的にも極めて局所的な――に焦点を当てた論考を試みるのも、ちょっと面白いかもしれません。
☆ピアノ協奏曲 第5番 ニ長調 K.175
第1楽章 アレグロ(Allegro)
第2楽章 アンダンテ・マ・ウン・ポーコ・アダージョ(Andante ma un poco Adagio)
第3楽章 アレグロ(Allegro)
Mozart - Piano Concerto No. 5 in D major, K. 175 (Mitsuko Uchida) - YouTube