モーツァルト・カフェ|名曲・おすすめ作品・エピソードなど

不世出の天才作曲家W.A.モーツァルト。その名曲・代表作・おすすめ作品をはじめ、生涯や音楽上のエピソードなどをご紹介します。

Mozartゆかりの都市(5)―アウクスブルク

ローマ皇帝アウグストゥスが紀元前15年に築いた城にその起源を持ち、15、16世紀にはフッガー家をはじめとする富豪の地盤として繁栄を極めた都市――と言えば、もうお分かりの方も多いことでしょう。

 

そう、アウクスブルクです。

 


アウクスブルクはまた、マルティン・ルターの教義に対する理解・信奉が強く、1555年にはここで宗教和議が開催されたほか、ルターその人の滞在および活動もあったことから、宗教都市としての性格も強く有しています。

 

聖ウルリヒ・アフラ教会

 

音楽に関しても、都市の起源とのかかわりもあるのでしょうか、歴史的にイタリアのオペラや器楽が盛んではあったものの、あくまで、南ドイツという一地方においての中心地――と言うのが妥当なところかと思います。

 

今回、そんなアウクスブルクを取り上げたのは、ここがレオポルト・モーツァルトの生誕地だからです。

 


1719年、製本業を営む家に生まれたレオポルトは、ギムナジウム(中等学校)で神学、ラテン語、歴史、算術といった当時の必修科目を学んだのち、さらに上級の学校へ進学する一方、音楽に対しても優れた才能を示し、その将来に対して周囲から大きな期待がかけられていたにもかかわらず、18歳の時、突然アウクスブルクを後にしてザルツブルクへ移ってしまいます。

 

この真の原因・理由は不明ですが、ザルツブルク大学で哲学と法律を学ぶ――との名目を、音楽に熱中してあっさり放棄してしまった事実を鑑みるに、進むべき道について家族との大きな衝突があり、家を捨てる覚悟をもっての行動だったに違いありません。

 

そして実際、その後レオポルトと一族との繋がりは、辛うじて弟アロイスの家族と、細く残るのみとなってしまったのです。

 


さて、ヴォルフガンクとアウクスブルクとの係わりとなると、生涯にわずかに三度訪れただけ、しかも、いずれもここを直接の目的地としたわけではなく、他への旅行の途次、立ち寄ったに過ぎません。

 

これについては、上述したようなアウクスブルクの地方都市的性格に加え、ヴォルフガンクの少年時に企画実行された、距離的にも時間的にも膨大な旅行において、引率者レオポルトが自らの蟠りから意図的に訪問を回避した可能性も考えられるように思います。

 

 

 

 


しかしその例外として、1763年の6月、いわゆる西方への大旅行の途次、同月下旬から翌月初めにかけてモーツァルト一家はこの地を訪れました。

 

もっともこれには、先立つ5月19日、アウクスブルクの新聞に、ナンネルおよびヴォルフガングの驚異的楽才を紹介する記事が掲載され、これに対して示された一部懐疑的な反応を打破しようとの意図から、敢えて立ち寄ったのかもしれません。

 

この目論見は遺憾なく果たされましたが、「聴衆は新教徒ばかりだった、」とのレオポルトの言葉を詮索的にとると、若き日のザルツブルクへの出奔には、何らかの宗教な事柄も関係していたようにも思われます。

 


次にヴォルフガングがアウクスブルクを訪れたのは1777年秋、レオポルトの同行しない、母親と二人でのマンハイム・パリ旅行へ出発して間もなくのことでした。

 

この際、シュタインの製作したフォルテピアノと出会い、その優秀さを熱情的にレオポルトに書き送ったほか、この地を発った後、上に名を挙げたアロイスの娘、すなわちヴォルフガングには従妹に当たるマリア・アンナ・テークラ――愛称ベーズレ嬢――に、下ネタまみれの数多の書簡が送られたことも、有名なエピソードとしてご存じの方も多いはずです。

 


そして1790年秋、「ピアノ協奏曲第19番 ヘ長調 K.459 "第2戴冠式"」でも述べた通り、ヨーゼフ2世の後を受けたレオポルト2世の戴冠式フランクフルト・アム・マインで執り行われることとなりましたが、モーツァルトに対しては何ら公式の音楽的用命はなく、経済的に酷く困窮していた彼は、その祝祭で何らかの収入を得ようと、借金までして当地へ向かいます。

 

しかし、この旅行でも、望んだような成果を得ることはできず、その帰途の10月29日、アウクスブルクに一泊したのです。

 

その旅館「Zum Weissen Lamm(白羊館)」は、かつて期待と希望に満ちてマンハイム・パリ旅行へ向かう際、母親と一緒に泊まった宿でもありました。

 

往路と復路の差こそあれ、いずれも旅の目的は果たせなかったという点は共通しているわけです。

 

 

なお、白羊館には、同じ1790年の3月、かのゲーテも泊まったことが知られていますが、残念ながら旅館自体は既に消失し、かつての存在を示す石板が置かれているだけ。

 

もしこの旅館が残っていれば、音楽・文学双方に亘る、アウクスブルクの大きな名所となっていることでしょう。