モーツァルト・カフェ|名曲・おすすめ作品・エピソードなど

不世出の天才作曲家W.A.モーツァルト。その名曲・代表作・おすすめ作品をはじめ、生涯や音楽上のエピソードなどをご紹介します。

グラスハーモニカのための五重奏曲(アダージョとロンド) K.617、同アダージョ ハ長調 K.356(617a)

今回は、知られざる名品、あるいは、知る人ぞ知る傑作というべき二曲をご紹介したいと思います。

 

その作品は、「グラスハーモニカのための五重奏曲(アダージョとロンド) K.617」、および「同アダージョ ハ長調 K.356(617a)」。

 

しかし、本題に入る前に、グラスハーモニカという楽器について少し書くことにしましょう――

 


水の入ったグラスの縁を濡れた指で擦ると妙なる音色の出ることをご存じ、あるいは実際にご経験の方もあるかと思います。

 

そのようなグラスを多数並べて音楽演奏に利用するものをグラス・ハープと呼びますが、同じ発音原理を利用するものの、より演奏しやすいよう、グラスを音階順に並べて底面中央に一本の軸を通し、これを水を張った箱に入れたものがグラスハーモニカで、ペダルを踏んでその軸、延いてはグラスを回転させながら、指をそこに当てることで演奏を行います。

 

因みに、グラスハーモニカを考案したのは、アメリカの政治家、外交官であると同時に避雷針の発明などでも知られるベンジャミン・フランクリンで、彼自身による命名は"harmonica"をフランス語で発音した「アルモニカ」でした。

 

この楽器は、フランクリンが親戚であるデイヴィス家の娘マリアンヌに贈り、彼女が姉セシリアの歌唱の伴奏に使ったことをきっかけに、間もなくヨーロッパ中で大評判になります。

 

しかしながら、そのあまりに神秘的な音色のため、まだ中世の残滓を払拭し切れていなかった当時の社会は、グラスハーモニカの音が人を狂気に陥れたり、悪魔を呼び寄せたりするのではないかと恐れ、さらにあるコンサートにおいて幼い子どもが死亡するという事件が発生したことから、この楽器の使用は法律で禁じられてしまったのでした。

 

 

 

 


さて、この辺りで、グラスハーモニカとモーツァルトとのかかわりに移りましょう。

 

モーツァルトがこの楽器の音色を聴いたのは、いわゆる西方への大旅行でロンドンに滞在した1764-65年が最初で、さらにイタリア旅行でミラノを訪れた1771年にも、ともに上でご紹介したマリアンヌ嬢の演奏によってであると考えられています。

 

さらに1773年には、モーツァルトの後援者であったフランツ・アントン・メスマーの奏でるグラスハーモニカをウィーンで耳にしていますが、この人物は音楽家ではなく、動物磁気説の提唱者にして磁気療法および催眠療法の先駆者と位置付けられる医師で、患者に対する施療の一助として、グラスハーモニカの音色を聞かせていたのです。

 

その患者の一人、目を患ったマリア・テレジア・フォン・パラディスに対し、メスマーはグラスハーモニカが禁止された後もこれを治療に用いた上、彼女の視力の回復にも失敗したことから、ウィーンを追放される羽目となります。

 

そして、このマリア・テレジアは優れた女流ピアニストで、モーツァルトは彼女のために「ピアノ協奏曲 第18番 変ロ長調 K.456」を書いているのです。

 


と、ここまでは単なる間接的エピソード。

 

モーツァルトとグラスハーモニカのより深い、本質的な邂逅は、最晩年の1791年、マリア・アンナ・アントーニア・キルヒゲスナー(Maria Anna Antonia Kirchgasner)によりもたらされました。

 

彼女も幼い時に天然痘で失明するという憂き目に遭いながら、音楽の素養のあった母親からピアノの手ほどきを受け、後にカールスルーエ宮廷の楽長シュミットバウアーの弟子となり、ここで恩師の改良したグラスハーモニカと出会い、卓抜したその演奏により、当時のヨーロッパにおいて最大級の賛辞を博するに至ります。

 

天界のミューズは、そんなマリア・アンナとモーツァルトをしっかりと引き合わせ、1791年、マリア・アンナのコンサートがウィーンで企画された際、彼は彼女のために作品を書くこととなったのです。

 

 

 

 


それが、「グラスハーモニカのための五重奏曲(アダージョとロンド) K.617」で、これに併せ、アンコール用としてもう一つの「アダージョ ハ長調 K.356(617a)」がものされたと考えられています。

 

すべて合わせても20分ほどと、こと規模に関しては決して大きな作品ではないものの、その幽玄かつ深遠な響きに心を揺り動かされない人は、まずいないはずです。

 

これは取りも直さず、モーツァルト自身、さらには演奏を託されたマリア・アンナの、現世に対する清澄な諦念、さらに冥府への憧憬と畏怖ともいうべきものが、聴く者の心に自ずと看取されることが、大きな一因であるように思えてなりません。

 

その意味で、この二曲は、直後に書かれた「モテット ニ長調 K.618 "アヴェ・ヴェルム・コルプス"」「クラリネット協奏曲 イ長調 K.622」とともに、モーツァルト白鳥の歌、辞世の句であると同時に、マリア・アンナの魂の照映とも言えるように思います。

 


マリア・アンナもモーツァルト同様、1808年にわずか39年の短い生涯を閉じたことを記し、本稿を結びます。

 


☆グラスハーモニカのための五重奏曲(アダージョとロンド) K.617

https://www.youtube.com/watch?v=EwswlusoEgo

 

☆グラスハーモニカのためのアダージョ ハ長調 K.356(617a)

https://www.youtube.com/watch?v=QkTUL7DjTow