モーツァルト・カフェ|名曲・おすすめ作品・エピソードなど

不世出の天才作曲家W.A.モーツァルト。その名曲・代表作・おすすめ作品をはじめ、生涯や音楽上のエピソードなどをご紹介します。

Mozartゆかりの都市(7)―ロンドン

これまでにも何度かご紹介したように、ヴォルフガングと姉ナンネルの楽才を広く世に知らしめるべく、1763年6月9日、レオポルトは一家を引き連れて「西方への大旅行」に出発します。

 

そして第一の主要目的地たるパリへ同年11月19日に足を踏み入れて五ヶ月ほどそこに滞在した後、1764年4月10日にこの地を一旦去ってロンドンへと向かいました。

 


当時のロンドンは既にパリと並ぶ世界の中心都市として名高く、またその後もほとんど絶えることなく同じ地位を占め続けて現在に至っていることはご存じの通りですが、たとえばその頃の主な都市のおおよその推定人口を挙げると、清朝の北京が100万人、ロンドンと日本の江戸がそれぞれ70万人、パリは60万人、片やウィーンは20万人だったと言われています。

 

この人口と直接かつ密接に関係する政治や経済だけではなく、音楽に関してもロンドンは全盛期にあり、コヴェント・ガーデン王立歌劇場でのイタリア・オペラの上演をはじめとして数多のコンサートが開かれたほか、貴族を含む上流階級の私邸でも盛んに演奏会が行われていました。

 

 


初めてドーヴァー海峡を渡ったモーツァルトは、4月23日にそのロンドンに到着し、早くも三日後には、ロンドンにおける音楽文化の振興はこの国王夫妻の理解と援助によるところが大きいとされている、ジョージ3世と王妃シャーロットの御前で演奏を行います。

 

さらに5月19日には、同じバッキンガム宮殿において催された王室の二度目の婚約式に招かれ、王妃シャーロット・ソフィアが歌うアリアの伴奏という栄を賜ったほか、ヘンデル、ヨハン・クリスチャン・バッハといった作曲家の作品を演奏し、さらにヘンデルのアリアに対してはその通奏低音に材を採った即興演奏まで披露して自らの楽才を顕示することができました。

 

この場には、当時王妃の音楽教師を務めていたヨハン・クリスティアン・バッハその人もおり、二人は20という年齢の差を超えてすっかり意気投合したようです。

 

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さて、ロンドンにおける音楽熱は独り王族・貴族の間だけではなく、パリのコンセール・スピリチュエルの向こうを張った一般向けの公開演奏会も盛んに行われており、モーツァルト姉弟もそこで喝采を博し、6月5日のコンサートでは、わずか数時間で実にレオポルトの年収数年分の収益があったと言われています。

 


このような演奏家としての成功に加え、ヴォルフガングは作曲面においても色々な経験や試みを通じていくつもの芽を萌え出させ、これらが後に見事な花を咲かせるととも果実としてたわわに実るのは、音楽史如実に示されている通り。

 

具体的には、まず王妃シャーロットに「作品3」として献じられた6曲のヴァイオリンとピアノのためのソナタがあります。

 

また、大好きなヨハン・クリスチャンの作品にヴォルフガングが触発されないはずはなく、彼の交響曲を聴いたことが素因となって、1794年末にはこのジャンルにおける現存の処女作「交響曲 第1番 変ホ長調 K.16」が誕生し、翌年にはさらに続けていくつかの交響曲が書かれたと考えられているのです。

 


このように、その神童ぶりを遺憾なく発揮した上、芸術上で多大な収穫を収めたヴォルフガングですが、さすがに9歳になったばかりの子どもに確固とした地位の与えられるはずもなく、1795年の7月24日、一家はロンドンを後にし、翌月1日にはドーヴァー海峡を渡り大陸へと戻りました。

 

そして再びロンドンへ赴くことはなかったものの、晩年、彼の地でヴァイオリン奏者や興行師として活動したドイツ生まれのヨハン・ペーター・ザロモンに熱心に誘われたこと、およびこの人物が最後の交響曲「第41番 ハ長調 K.551」に"ジュピター"という恰好な標題を付したという事実に、小さくない所縁を感じます。

 

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