ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 変ホ長調 K.364(320d)
先に以下の記事でもご紹介したように、モーツァルトは27ものピアノ協奏曲を、少年期から晩年まで、その短い生涯全体を通じて書いた一方、ヴァイオリン協奏曲はわずか5曲を青年期に残したのみです。
しかしながら、今一つ、独奏楽器としてヴァイオリンにヴィオラを加えた二重協奏曲を忘れるわけにはいきません。
「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 変ホ長調 K.364(320d)」です。
この曲が成ったのは、失意に終わったマンハイム‐パリ旅行からザルツブルクへ帰郷して後、1779年の夏から秋にかけてのことではないかと推定されています。
作曲動機も定かではありませんが、マンハイム‐パリ旅行を快く許してくれなかった大司教コロレードに対し、その旅行の成果を、かの地で人気を博していたジャンルの作品として提示しようとしたのかもしれません。
協奏交響曲(sinfonia concertante)の特質の一つは、複数の独奏楽器が、お互い同士およびオーケストラとの協奏とともに、互いに丁々発止の競奏を演じる点にあり、それを考慮してでしょうか、同作K.364の独奏ヴィオラは半音高く調弦するよう指示されており、本来深みと渋みを持ち味とするこの楽器が、ニ長調の煌びやかな音色でヴァイオリンと渡り合います
そしてこの事実はさらに、第一・第二楽章のカデンツァが作曲者の手により残されていることと併せ、ピアノとともにヴァイオリン、ヴィオラの名手でもあったモーツァルトが、自らそのヴィオラのパートを受け持ち、対するヴァイオリンは、大司教のお気に入り――しかし音楽的には十人並み――のブルネッティが弾くことを想定したのではないか、という考えにも、自然と繋がっていくのです。
ともあれ、少し前、パリ滞在中に書いた「フルートとハープのための協奏曲 K.299(297c)」が、若い二人の仲睦まじい会話に終始しているのに比べ、K.364は、壮大緻密なオーケストラを背景とした大人の真剣真摯な語らいの趣を具えており、特に、悲しみの中に清々しいともいえる諦観が現出する第二楽章は秀逸というほかありません。
これが威厳に満ちた第一楽章、重さと軽さを兼ね具えた終楽章と相俟って、極めて均整のとれた音楽作品に仕上げられています。
モーツァルトの作品には、「軽さが沈み、重さが浮かぶ」印象を覚えることが往々にしてありますが、このK.364の終楽章もその重要な一例と言ってよいでしょう。
なお、このジャンルにおけるモーツァルトの他の作品としては、パリ滞在中にル・コンセール・スピリチュエルの監督ル・グロの依頼で書かれたものの消失してしまった「管楽(フルート・オーボエ・ホルン・ファゴット)のための協奏交響曲 変ホ長調 K.297B(Anh.9, K.Anh.C14.01)」と、断片の残る「ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのための協奏交響曲 イ長調 K.Anh104(320e)」が知られています。
この内、前者に関しては、後にモーツァルトの伝記を書いたオットー・ヤーンの遺品の中に、オーボエ・クラリネット・ホルン・ファゴットを独奏楽器とする協奏交響曲の写譜が発見され、これがモーツァルトの失われた作品ではないかとの推定もなされましたが、現在では他人の手の入った改作との見解が主流のようです。
今後調査や研究が一層進んで、上の二作品も聴くことができる日の来ることを願いながら、本稿を閉じましょう。
☆ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 変ホ長調 K.364(320d)
第1楽章 アレグロ・マエストーソ(Allegro maestoso)
第2楽章 アンダンテ(Andante)
第3楽章 プレスト(Presto)
https://www.youtube.com/watch?v=qtWOhAfcdRo
Mozartゆかりの都市(6)―パリ
実質的な世界大戦となった七年戦争が終結を見て間もない1763年6月9日、レオポルトは7歳のヴォルフガングと姉ナンネルの楽才を広く世に知らしめようとの目的を胸に抱いて、一家揃ってのいわゆる「西方への大旅行」に出発し、ミュンヘン・フランクフルト・アントワープ・ブリュッセルを経て、同年11月19日、パリへと足を踏み入れました。
フランスを大国たらしめた絶対王政の内包するさまざまな矛盾や歪みが七年戦争に破れたこともあって顕在化すると同時に、新興ブルジョワ階級に代表される市民の権利意識の高揚により、社会的不安が疼き始めていたとはいえ、当時のパリは、文化の面ではまだヨーロッパ第一の都市、花の都の面目を保っていました。
これは音楽についても同様で、数多の作曲家や演奏家がこの地へ集うとともに、定期的にテュイルリー宮殿内のスイス人百人ホールで開催され、ヨーロッパ各国の公開演奏会・組織のモデルともなった「ル・コンセール・スピリチュエル」では、宗教曲をはじめとして、管弦楽から室内楽まで、さまざまな音楽が奏でられていました。
そこへ姿を現したヴォルフガングは、パリで「文芸・哲学・批評通信」を主催していたドイツ出身のフリードリヒ・メルヒオール・フォン・グリムによる、同誌上での紹介やルイ15世の御前演奏の取り計らいもあり、人々の喝采と収入を手にすることができましたが、如何せんまだ幼過ぎ、具体的な地位を得るには至らず、また、ものされた作品もごくわずかでした。
そして翌1764年4月10日パリを後にし、ドーヴァー海峡を渡ってロンドンを訪れて一年三ヵ月あまり滞在した後、欧州大陸へ戻ってカレーからオランダへ向かい、1766年5月、再びパリに立ち寄りましたが、この時は二ヶ月の滞在に過ぎませんでした。
それから11年あまり後の1777年9月23日、かつての神童はその天才の輝きを失うことなく、寧ろそれに一層の磨きをかけた青年音楽家として、マンハイム・パリ旅行へ向かいます。
この時の目的も就職活動、音楽界における地位の獲得でしたが、同伴者は前回とは異なり母親一人だけでした。
同様な機会には常に一緒だったレオポルトを欠いた理由は、ザルツブルク大司教に休暇と旅行の許しを願い出たところ、その許可とともに解雇も通告されたため、そのショックで旅行どころではなくなったのと、大司教の怒りを鎮めるべく、旅行の申請を取り下げたからかもしれません(実際、その後解雇も取り消されています)。
ともあれ、ミュンヘン・アウクスブルクと辿ってマンハイムへ達し、ここに四ヶ月半滞在した後、パリへは1778年3月23日に到着しました。
やがて革命の勃発することになるパリは、モーツァルトが前回訪れた時に比べ、社会の各面で不穏な気配が濃くなっており、マリア・アンナは手紙で、物価の高さについての不満をザルツブルクへ書き送っています。
肝心の就職活動の方も、国王ルイ16世はじめ貴族たちからの招きはなく、また、当てにしていたル・コンセール・スピリチュエルの反応も暖かいものではありませんでした。
その逆境を打開すべく、次に挙げるような優れた作品群を信じられないほどの速さで次々と書き上げますが、これも遺憾ながら奏功しませんでした。
・管楽のための協奏交響曲 変ホ長調 K.297B(Anh.9)
・フルートとハープのための協奏曲 K.299(297c)
・「私はランドール」の主題による12の変奏曲 変ホ長調 K.354(299a)
・交響曲 第31番 ニ長調 K.297(300a) "パリ"
・レチタティーヴォとアリア「不滅の神々よ、私は求めず」 K.316(300b)
・ピアノとヴァイオリンのためのソナタ 第28番 ホ短調 K.304(300c)
・ピアノ・ソナタ 第8番 イ短調 K.310(300d)
・ピアノとヴァイオリンのためのソナタ 第30番 ニ長調 K.306(300l)
そんな失意のヴォルフガングに、さらに大きな不幸が追い打ちをかけます。
1778年7月3日、母マリア・アンナを亡くしたのです。
まさに弱り目に祟り目ともいえる状況の下、唯一の光明は、ル・コンセール・スピリチュエルの長ル・グロの依頼を受けて作曲した「交響曲 第31番 ニ長調 K.297(300a)」が6月8日にテュイルリー宮で演奏され、非常な喝采を博したことでしょう。
同交響曲が「パリ」と呼ばれるのは、これに由来しています。
故郷の父への手紙でそのことを誇らしげに報告するとともに、他のほとんどすべてが不如意に終わったにもかかわらず、ザルツブルクへは帰りたくないとの気持ちを伝えましたが、レオポルトの厳命で9月26日にパリを去り、以後二度とこの地を踏むことはなかったのです。
その11年後の1789年、ご存じのようにフランス革命が起こり、かつて束の間ながらそこで栄光に浴したル・コンセール・スピリチュエルも、1791年に一度終焉を迎えました。
モーツァルトが世を去ったのもこの年です。
☆交響曲 第31番 ニ長調 K.297(300a) "パリ"
第1楽章 アレグロ・ヴィヴァーチェ(Allegro vivace)
第2楽章 アンダンテ(Andante)
第3楽章 アレグロ(Allegro)
https://www.youtube.com/watch?v=CShEPvBf048