ピアノ・ソナタ 第1番 ハ長調 K.279(189d)
ごく幼い頃から類稀な楽才を見せ、8歳で交響曲、11歳ではオペラを作曲したモーツァルトですが、一台のピアノで奏されるピアノ・ソナタのジャンルへ足を踏み出したのは意外と遅く(彼にしては)、少年から青年への移行期ともいえる、18歳の暮れから翌年初めにかけてのことでした。
自作のオペラ・ブッファ「偽りの女庭師(La Finta Giardiniera) K.196」上演のためミュンヘンを訪れたモーツァルトは、バイエルン選帝侯の侍従で音楽愛好家だった同年輩のタデウス・フォン・デュルニッツ男爵と知り合い、彼の注文に応じて「ファゴット協奏曲 変ロ長調 K.191(186e)」をはじめとするいくつかの作品を書き、そこに6曲からなる一連のピアノ・ソナタが含まれたが、その最初の足跡なのです。
従って、デュルニッツ男爵の注文がこれらピアノ・ソナタ作曲の直接の動機と考えられてはいるものの、その直前の1773年にJ.ハイドンの発表した、やはり6つのピアノ・ソナタ「作品13」による感化、さらには当時広まり始めたフォルテピアノという新たな楽器に対する関心もまた、モーツァルトの作曲意欲を大きく刺激したであろうことは、ニール・ザスロー編「モーツァルト全作品事典」(音楽之友社)などにおいて指摘されています。
これらを勘案すれば、モーツァルトにとってピアノ・ソナタの文法習得という意味をも具えた作品群と言えるかもしれません。
さて、その第1番に位置付けられるのが、「ピアノ・ソナタ ハ長調 K.279(189d)」。
この1から6までの番号はモーツァルト自身の手で付されたものながら、果たして実際にその順序で書かれたのかは定かでありません。
しかしともあれ、動機・時期ともに同じ背景を持つ作品群に対し、作曲者が自らその番号を与えたことを鑑みれば、この世界の新たな幕開けを飾る作品として、「ハ長調 K.279(189d)」を素直に据えるのが妥当なところでしょう。
実際、この第1番は、フォルテピアノの前身たるチェンバロを想起させる響きを色濃く纏っており、それが番号を追うに従い、次第にフォルテピアノ寄りへと移行していく印象を受けます。
上に述べたピアノ・ソナタの文法習得の過程を通じ、自然にそのような様相を呈するに至ったとも考えられる一方、もしかしたら、これは音楽の進展を、楽器の変遷に絡めて連作という形式の中に具現しようという、モーツァルトの明確な意思・意図に基づくものかもしれない――そんなこともふと思われます。
3つの楽章いずれもソナタ形式というシンプルな構成をとり、規模も大きくはない作品ということもあり、他の絢爛たる名作の陰に隠れてしまいがちですが、可憐な一輪として、またこの天才のその後の発展・展開を知る上でも、看過することのできない一曲であることは確かです。
☆ピアノ・ソナタ 第1番 ハ長調 K.279(189d)
第1楽章 アレグロ(Allegro)
第2楽章 アンダンテ(Andante)
第3楽章 アレグロ(Allegro)
https://www.youtube.com/watch?v=0gIz-CGcPEk
Mozartの出会った人々(6)―ヨハン・クリスティアン・バッハ
モーツァルトの先達たる作曲家の内、当時の人気については一先ず措くとして、現在の観点から最も高く評価されるのはヨハン・セバスチャン・バッハ(Johann Sebastian Bach、1685年3月31日-1750年7月28日、いわゆる大バッハ)と言ってまず異論は出ないでしょう。
この大作曲家から大きな啓発を受けたのは、1756年に誕生したモーツァルトも例外ではありませんが、大バッハの没年からわかるようにそれは二人が直接出会ってのことではなく、ゴットフリート・ファン・スヴィーテン男爵が自宅で催した音楽の集いにおける演奏を通じてのものでした。
因みに、この機会に大バッハの次男カール・フィリップ・エマヌエル、その兄のヴィルヘルム・フリーデマンの作品にも接したことを、モーツァルト自ら感激を籠めて手紙に認めています。
一方、2度の結婚で十一男九女(!)をもうけたヨハン・セバスチャンの第11子にして一番下の息子として生まれたヨハン・クリスティアン(Johann Christian、1735年9月5日-1782年1月1日)とは、モーツァルトは8歳の時に訪れたロンドンで面識を得ました。
1750年に父の大バッハが没すると、15歳のヨハン・クリスティアンは「ベルリンのバッハ」こと兄のカール・フィリップ・エマヌエルの下で保護と教育を受けることとなりました。
しかし、ヨハン・クリスティアンが傾倒したのは兄の音楽ではなく、その地で目にした華やかなイタリア・オペラで、その魅力に抗いきれずに19歳のときイタリアへ移ります。
そして傑出した音楽家でもあるボローニャのマルティーニ神父の門を叩いてその教えを受けた後、ミラノ大聖堂のオルガニストを務め、ミサ曲やレクイエムといった宗教作品を書く一方、予てより憧れていたオペラの世界へも足を踏み出したのです。
これらのオペラ作品はミューズに祝福され、海を隔てたロンドンからも創作の依頼を受けたヨハン・クリスティアンは、父大バッハの好敵手であったヘンデルがかの地で手にした華々しい栄誉を自分も――との希求もあったのでしょうか、1762年にドーヴァー海峡を渡ります。
そんなヨハン・クリスティアンの望みは遺憾なく実現し、作曲した数々の作品やカール・フリードリヒ・アーベルとともに企画開催した定期演奏会「バッハ・アーベル・コンサート」により、イギリスでもっとも有名な音楽家として広く知られることとなった他、王室の音楽教師としても重用されました。
ヨハン・クリスティアンが「ミラノのバッハ」、「ロンドンのバッハ」と呼ばれる所以です。
さて、ヨハン・クリスティアン・バッハが華々しい音楽活動を展開している地、ロンドンをモーツァルト一家が訪れたのは1764年4月23日、初めに書いたようにヴォルフガングが8歳の時のことで、一家揃ってのいわゆる西方への大旅行の一環としてでした。
到着してすぐ、バッキンガム宮殿で国王ジョージ3世および王妃に拝謁し、またヨハン・クリスチャン・バッハとも面識を得たモーツァルトは、翌月に王宮で催された演奏会において彼のハープシコード作品を初見で見事に演奏したことが知られています。
これを機に二人の音楽家――片や新進気鋭の青年、もう一人はまだあどけない幼児という年齢の開きはあるものの――はすっかり親密になり、9月の終わりにモーツァルト一家がロンドン中心部スリフト・ストリート(現在のフリス・ストリート)に移ってからは、ヨハン・クリスチャンが近くに住んでいたこともあって、彼がヴォルフガングを膝に乗せ、一緒にチェンバロでソナタを弾いたりしたようです。
後に姉のナンネルがその時のことを追想して、「二人は数小節ごとに代わる代わる演奏していましたが、その様子を見ていない人が聴いたとしたら、きっとヨハン・クリスチャンが一人で演奏していると思ったに違いありません」と語っていますが、これは取りも直さず、ヴォフガングの音楽的力量を如実に示すエピソードの一つと言えるでしょう。
そんな大好きなヨハン・クリスチャンの作品にヴォルフガングが触発されないはずはなく、彼の交響曲を聴いたことが素因となって、このジャンルにおける処女作「交響曲 第1番 変ホ長調 K.16」が誕生したのです。
さらに、1770年の末頃には、ヨハン・クリスティアンが1768年に出版した「6つのピアノソナタ 作品5」の第2、3、4曲を編曲して「3つのピアノ協奏曲 K.107」を書いており、延いては後に手掛けたピアノ・ソナタにそのエレガンスを聴き取れることも指摘されています。
https://www.youtube.com/watch?v=rFY6Y9BChgY
☆3つのピアノ協奏曲 K.107
https://www.youtube.com/watch?v=dvEMM0jkyvQ&t=1s
なお、上に述べた通り、ヨハン・クリスティアンは音楽家としてこの上ないほどの成功を手にしたわけですが、それが故国を捨てて――少なくとも後にして――外国において果たされたこと、およびイタリアではカトリックへ改宗までした点を、バッハ一族の他の面々、特にカール・フィリップ・エマヌエルは快く思っていなかったようです。