モーツァルト・カフェ|名曲・おすすめ作品・エピソードなど

不世出の天才作曲家W.A.モーツァルト。その名曲・代表作・おすすめ作品をはじめ、生涯や音楽上のエピソードなどをご紹介します。

ヴァイオリン・ソナタ

今回は、モーツァルトの「ヴァイオリン・ソナタ」についてご紹介したいと思います。

 

現代の慣習に従い「ヴァイオリン・ソナタ」といったものの、モーツァルトの時代には、これは「ピアノとヴァイオリンのためのソナタ」、あるいは「ヴァイオリン伴奏つきのピアノ・ソナタ」と呼ばれていました。

 

これらの呼称、特に後者から分かるように、当時、このジャンルの演奏の主役はクラヴィーア(チェンバロまたはフォルテピアノ、後にピアノ)であり、一方のヴァイオリンはあくまでも伴奏、省くことさえ可能なパートとして位置づけられていたのです。

 


さて、モーツァルト室内楽の中で、このヴァイオリン・ソナタを数多く残しており、以前は第43番までの番号が付されていました。

 

また、作曲年代についても、1764年から1788年までと、途中書かれなかった時期はあるものの、ほぼ全生涯にわたっています。

 

これらのことから、先にご紹介した弦楽四重奏曲とともに、ヴァイオリン・ソナタモーツァルト室内楽を語る上で欠くことのできない作品群と言うこともできます。

 

それにも関わらずこのジャンルが軽視されがちな理由は、記事の後半で自然と明らかになるでしょう。

 

 

 


モーツァルトのヴァイオリン・ソナタのもう一つの特徴は、いくつかの曲がセットとして、まとめて作曲されているという点。

 

これを理解するには、作品を列挙するのが一番なので、現在このジャンルに分類されているものの内、断片や未完のものを除いて列挙してみます。

 

K.6, 7 [2曲、フランス王女ヴィクトワールに献呈]

K.8, 9 [2曲、ド・テッセ伯爵夫人に献呈]

K.10-15 [6曲、英王妃シャーロットに献呈]

K.26-31 [6曲、オランジュ公妃カロリーネ・フォン・ナッサウ・ヴァイルブルクに献呈]

 

K.301(293a), K.302(293b), K.303(293c), K.304(300c), K.305(293d), K.306(300l)
[6曲、プファルツ選帝侯妃マリア・エリーザベトに献呈]

 

K.376(374d), K.296, K.377(374e), K.378(317d), K.379(373a), K.380(374f)
[6曲、アウエルンハンマー嬢ヨーゼファに献呈]

 

K.454, K.481, K.526, K.547

 


この一覧は、モーツァルトのヴァイオリン・ソナタがセットとして書かれた理由を如実に示していると同時に、また作曲の動機も我々に教えてくれます。

 

それはすなわち、音楽を愛好する貴顕(淑女)への贈り物とするためであり、ここからさらに、当時のヴァイオリン・ソナタの性格も自ずと窺うことができます。

 

実際、幼少期のK.31までは、「ヴァイオリン伴奏つきのピアノ・ソナタ」というに相応しく、主役の(女性)ピアニストを輝かせるべく、そのパートを前面に出した印象を否めません。

 

そして、これらを合わせて既に18という作品数となっているため、「モーツァルトのヴァイオリン・ソナタは芸術的価値に欠ける」と見做されがちで、延いてはこのジャンルが軽く見られることに繋がっているのだと思います。

 

 

 


しかし、青年に成長し、自ら人生を切り開くべく旅立った先のマンハイムおよびパリにおいて、ヨーゼフ・シュスターの作品による啓発もあって書かれたK.301(293a)以降については、上の性格は底流に維持しながら、ヴァイオリンにも明確かつ重要な役割を与え、ピアノとともに有機的な音空間を紡ぎ出す、優れた芸術作品となっている点は看過すべきでありません。

 

実際、ここに属する作品が、現在も演奏会や録音などでしばしば耳にするものだということは、ご存じの通りです。

 


その中から、「ヴァイオリン・ソナタ ホ短調 K.304(300c)」をお聴き頂きましょう。

 

作曲年は1778年、旅先のパリで書かれたもので、モーツァルトのヴァイオリン・ソナタの中で唯一の短調、しかもホ短調という、この天才作曲家には極めて珍しい調性に乗せ、この上なく哀切な情調が表現されている名曲です。

 

以前にも触れましたが、この旅行でモーツァルトは母親を失くし、アロイジア・ウェーバーへの恋は破れるという、二重の大きな痛手を蒙っており、「ピアノ・ソナタ イ短調 K.310(300d)」とともに、その時の心情が吐露されているのではないかと考えられています。

 

楽章構成は、

第1楽章 アレグロ ホ短調 2分の2拍子 ソナタ形式
第2楽章 テンポ・ディ・メヌエット

 

全体で15分に満たない小さな曲でありながら、モーツァルト短調作品の例に漏れず、この曲でも天国的な穏やかな美しさを示すフレーズが第2楽章の中間部に置かれており、単に「悲しい」だけの作品とは明確に一線を画している点にもご注目(耳)ください。

https://www.youtube.com/watch?v=NIZTnVbAnXM

 

 

Mozartの出会った人々(4)―ゴットフリート・ファン・スヴィーテン(男爵)

ゴットフリート・ファン・スヴィーテン男爵――と言っても、あまり一般には知られていない名前かもしれません。

 

しかし、ミロス・フォアマン監督の手になる映画「アマデウス」の中の次のシーンを記憶されている方は少なくないのではないでしょうか?

 

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お目通りを許されてその間へ入ると、たどたどしくピアノフォルテで行進曲が奏される向こうに数人の姿がある。

 

モーツァルトがそこへ静々と歩を運び、もっとも高貴かつ威厳があると見える一人に向かって深々とお辞儀をしたところ、その人物は拙いピアニストの方を指し示す。

 

そう、ピアノフォルテを弾いているその人こそ、神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ2世であった……

 

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このシーンでモーツァルトが皇帝と思い込み頭を下げた相手が、ゴットフリート・ファン・スヴィーテン(Gottfried van Swieten、1734-1803)男爵です。


オーストリア帝国の有能な官吏として、外交官、宮廷図書館長や書籍検閲委員長など歴任したスヴィーテン男爵は、また大の音楽愛好家でもありました。

 

1770年から1777年まで駐プロイセン大使としてベルリンに滞在した際、スヴィーテン男爵はヨハン・セバスチャン・バッハ(大バッハ)の次男カール・フィリップ・エマヌエルやその兄のヴィルヘルム・フリーデマンらと知り合い、彼ら、さらには大バッハの音楽に接して深い感銘を受けます。

 

ゴットフリート・ファン・スヴィーテン

 

当時、大バッハの作品は人々にほとんど忘れ去られていましたが、男爵はそれを中心に、ヘンデル、バッハ兄弟の作品をも含めたバロック音楽の積極的な収集を行い、そのコレクションは質・量ともに膨大かつ壮大なものとなりました。

 

そしてウィーンに戻った後、自らの屋敷でそれら集めた作品を鑑賞する集いを開き、1782年には、ザルツブルク大司教と決別してウィーンに居を構えたモーツァルトをそこへ招いたのです。

 

 

 


ここでバロック音楽を本格的に知ったモーツァルトは、大きな驚きを覚えると同時にすっかりこれに魅せられ、俗に「モーツァルトのバロック体験」と呼ばれています。

 

その興奮は父親レオポルトに宛てた手紙にも如実に表れているので、その一つをご紹介しておきましょう。

 

ぼくは毎週日曜日の12時にスヴィーテン男爵のところに行きますが、そこではヘンデルとバッハ以外のものは何も演奏されません。ぼくは今、バッハのフーガの収集をしています―ゼバスティアンのだけではなくエマヌエルやフリーデマン・バッハのも。それからヘンデルのも……(1782年4月10日)

 

 

モーツァルトがこのインスピレーションを無駄にするはずはなく、男爵の依頼によるヘンデル作品の編曲や、バッハ、ヘンデルの書法の研究は、間もなく「プレリュードとフーガ ハ長調 K.394」「ピアノ組曲 序奏とフーガ K.399(385i)」「5つのフーガ K.405」「2台のピアノのためのフーガ ハ短調 K.426」などとして結実し、さらに後年の「ピアノ協奏曲 第19番 ヘ長調 K.459 "第2載冠式"」「交響曲第41番 ハ長調 K.550 "ジュピター"」などにもその血脈は受け継がれていったのです。

 


当時、ウィーンで活躍するほとんどすべての音楽家と親交を持っていたといわれる男爵は、モーツァルトがその地の聴衆に見放された後も深い理解を示し続け、1791年に彼が亡くなった際には葬儀を準備し費用も負担したことでも知られています。

 

また、スヴィーテン男爵の設立した音楽愛好貴族協会(Gesellschaft der Associierten Cavaliers)は、現在のウィーン楽友協会の前身です。

 


最後に一曲、上に挙げた中から「プレリュードとフーガ ハ長調 K.394」の動画をご紹介しておきましょう。

 

モーツァルトがバロックの書法を完全に自家薬籠中のものとしていたことは、これを聴いただけでも分かるのではないでしょうか。