モーツァルト・カフェ|名曲・おすすめ作品・エピソードなど

不世出の天才作曲家W.A.モーツァルト。その名曲・代表作・おすすめ作品をはじめ、生涯や音楽上のエピソードなどをご紹介します。

Mozartの出会った人々(7)―ヨーゼフ2世

後に神聖ローマ帝国皇帝となり、さらにオーストリア大公、ハンガリー王、ボヘミア王としても君臨したヨーゼフ2世は、ローマ皇帝フランツ1世とマリア・テレジアの長男として1741年3月13日に生を享けました。

 

当時大きな潮流としてヨーロッパに浸透していた啓蒙思想を信奉するヨーゼフ2世は、1765年、フランツ1世が没して皇帝を戴冠すると、絶対的な権力を持つ啓蒙専制君主を目指しましたが、その急進的な改革は共同統治者として依然大きな存在であったマリア・テレジアとの間に軋轢を生じることとなります。

 

そのマリア・テレジア1780年に亡くなり、自ら思うところの政治を行えるようになった彼は、農奴解放・信教の自由・教会改革・貴族特権の廃止など、さまざまな施策を矢継ぎ早に行ったものの、その多くは大きな実りを得るには至りませんでした。

 

このため、君主としての評価は芳しいものではなく、ヨーゼフ2世自身これをよく認識していたことは、死に臨んで墓はごく簡素にするよう指示するとともに、そこに「善き意志を持ちながら何事も成し得なかった者、ここに眠る」と刻ませた事実から窺うことができます。

 

ヨーゼフ2世

 


ヨーゼフ2世自由主義的意識は政治の領域にだけではなく文化の面にも注がれ、アカデミックな領域での公用語として大学の講義に用いられていたラテン語をドイツ語へ変え、さらに進んでドイツ語の国語化も目指しました。

 

音楽の分野についても同様で、「音楽の本場はイタリア」という当時の一般的見方を打破すべく、「ドイツ化」の試みがいくつか行われ、これに関連してモーツァルトの名も登場します。

 

 

 

 


二人が初めて出会ったのは、1762年10月、モーツァルト10歳の時のことですが、この時はもちろん、両者には――取り巻きの人々は別として――何ら明確な意図や目論見はなかったに違いありません。

 


それを伴っての交わりは、モーツァルトがウィーンに居を移した後の1781年に始まります。

 

予てよりブルク劇場においてドイツ語の原作オペラの上演を成功させたいと宿望していたヨーゼフ2世が、モーツァルトに対してその作曲を依頼したのです。

 

ヨーゼフ2世のお目に適えば、モーツァルトにとってもこの上ない光栄、かつ盤石の後ろ盾を得ることになるわけで、無論受諾して鋭意仕事に取り組みました。

 

そして生まれたのが「後宮からの誘拐 K.384」。

 

この作品のヒロインの名が、自らの新妻と同じコンスタンツェであることも、結婚したばかりのモーツァルトの創作意欲を少なからず掻き立てたかもしれません。

 

翌年に実現したオペラの上演は成功裏に終わり、皇帝の目論見は果たされたものの、モーツァルトへのお呼びはかからず、こちらにとっては不如意な結果に終わってしまいました。

 

 

 

 


その後、同じ年のクリスマス・イブに、ヨーゼフ2世モーツァルトに対し、ロシアのパーヴェル大公(後のロシア皇帝パーヴェル1世)の一行を持て成す宴において、クラヴィーアの名手として知られるイタリア人、ムーツィオ・クレメンティとの競演を命じます。

 

さらに1786年には、実妹マリア・クリスティーナとその夫のアルベルト・カジミール・フォン・ザクセン=テシェンのウィーン訪問を歓迎する祝祭を彩るべく、モーツァルトに劇音楽の作曲を依頼し、「劇場支配人 K.486」として結実を見ましたが、この時もやはり、サリエリのオペラ・ブッファ「まずは音楽、お次が言葉」が続けて上演され、ドイツとイタリア、ぞれぞれのオペラの競演という趣向でした。

 

表面的には音楽のドイツ化を謳っていながら、ヨーゼフ2世自身はイタリア趣味が強く、モーツァルトに対する評価も決して高いものではなかったことは、上のサリエリを重用した事実などが如実に示しています。

 

 

1787年の12月7日、モーツァルトは漸く王室宮廷音楽家の称号を手にしましたが、その実態は舞踏会のための音楽を作曲するだけという閑職で、俸給も前任者クリストフ・ヴィリーバルト・グルックの2000フローリンに対し、半額以下の800フローリンに過ぎずませんでした。

 

姉のナンネルに宛てた手紙に「……たったの800フローリンです。――とはいえ、だれも皇室でこれだけ多くもらっている人はいません……」と書くことで自らを慰めるしかなかったのも、致し方ないところでしょう。

 


一方、そのモーツァアルトも、宮廷での地位を熱望はしていたものの、それはあくまで名声・収入といった世俗的利益を求める打算に基づくもので、皇帝に対する信頼・敬愛といった真摯な心情は希薄だったようです。

 

実際、1782年4月10日の手紙には、「……皇帝が1000フローリンを下さり、どこかの伯爵が2000フローリン支払うというなら――ぼくは皇帝の申し出を丁重にお断りして、その伯爵のところへ行きます……」と断言しています。

 

このような二人が、擦れ違いとも言える関係に終わってしまったのは、当然の帰結かもしれません。

 


☆オペラ 後宮からの誘拐 K.384

https://www.youtube.com/watch?v=KpXVy4qsMOA

 

 

 

 

弦楽四重奏曲 第16番 変ホ長調 K.428(421b) (ハイドン・セット第3番)

現在、ハイドン・セット第3番として広く知られる「弦楽四重奏曲 第16番 変ホ長調 K.428(421b)」には、その作曲順序および同セットにおける位置付けに関して、別の見解があります。

 


まず、作曲された時期について言うと、これを明に示す資料が欠けているため定かではないものの、概ね「第15番 ニ短調 K.421」とほぼ同時、1783年の6月から7月のことと考えられていますが、楽譜に使用された用紙に基づく年代研究で有名なアラン・タイソンは、ニ短調より前に書かれたと主張しています。

 

しかしいずれのせよ、両者が同時期に成ったことはほぼ間違いないようです。

 


一方、ハイドン・セットにおけるこの変ホ長調の位置付けについては、モーツァルト自ら自筆譜に「第4番」と書き入れているのです。

 

もっとも、1783年の時点で完成されていたのは全六曲中まだ三曲のみで、現在の第4番「変ロ長調 K.458 "狩"」の書かれるのは翌年、したがって、ハイドンへの献呈の際にモーツァルトが一連の作品の特質を考慮した上で順序を変更したことになります。

 

この事実を重視し、ケッヘル目録(モーツァルト全作品年代順主題目録)も初版では変ホ長調を第4番、変ロ長調の方を第3番としており、国際モーツァルテウム財団が編纂してベーレンライター社により出版された新モーツァルト全集(Neue Mozart-Ausgabe=NMA)もこれを踏襲しています。

 

 

 

 


さて、この変ホ長調四重奏曲の特質ですが、個人的にはその朝靄の如きニュアンスに代表されるように思います。

 

これに通ずる情調はモーツァルトの他の作品にも折に触れて見られ、真っ先に思い浮かぶのは「交響曲 第29番 イ長調 K.201(186a)」の主題旋律。

 

しかし、こちらが陽の光を含んで黄金色に輝き、やがてすっきりと晴れ渡るのに対し、変ホ長調四重奏曲の呈するのは沈んだ色合いで、しかも全曲を通じて漂い続けるという相違があります。

 

また、同じハイドン・セットの一曲である「第18番 イ長調 K.464」も、この点に関し看過すべきではないでしょう。

 


これらを念頭に置き、作品集としてのハイドン・セットにおける楽曲の並びを考えると、確かに作曲者自身の指示した次の順序の方が適切な印象を受けます。

 

ト長調(K.387)の高らかなファンファーレによりこのジャンルの新たな扉を開いた後、まず痛切なニ短調(K.421)を提示。それを明朗な変ロ長調(K.458)で中和した上で、美妙なニュアンスを具えた変ロ長調(K.428)とイ長調(K.464)を並べ、最後に不協和音のアクセントを置いたハ長調(K.465)により清澄な高みへと飛翔する……

 


もっとも、これほど粒の揃った秀作のセットなので、仮に現行の配列が採られたとしても、大きな劣化となるならないはず。

 

白状すれば、私などこの内の二曲を続けて聴くには、相当な気構えを要します。

 

我が聴取力・集中力の貧弱さはあるにせよ、その主因はやはり作品の充実度にあると言うべきでしょう。

 


弦楽四重奏曲 第16番 変ホ長調 K.428(421b) (ハイドン・セット第3番)
第1楽章 アレグロ・マ・ノン・トロッポ(Allegro ma non troppo)
第2楽章 アンダンテ・コン・モート(Andante con moto)
第3楽章 メヌエット:アレグレット(Menuetto: Allegretto)
第4楽章 アレグロ・ヴィヴァーチェ(Allegro vivace)

https://www.youtube.com/watch?v=uxiqi1SMhaI