モーツァルト・カフェ|名曲・おすすめ作品・エピソードなど

不世出の天才作曲家W.A.モーツァルト。その名曲・代表作・おすすめ作品をはじめ、生涯や音楽上のエピソードなどをご紹介します。

セレナード 第9番 ニ長調 K.320 "ポストホルン"

先にご紹介した「セレナード 第7番 ニ長調 K.250(248b) "ハフナー"」に並ぶ、このジャンルにおけるモーツァルトの大きな作品として、「第9番 ニ長調 K.320 "ポストホルン"」があります。

 

ポストホルンとは、モーツァルトの時代、郵便馬車がその出発や到着を知らせるために吹き鳴らした楽器で、その響きは聞く人の心に旅立ちや別れといった情趣を喚起する力を具えています。

 

そして、セレナード第9番が「ポストホルン」と呼ばれるのは、もちろんこの楽器が効果的に用いられているからに他なりません。

 


さて、ハフナー・セレナードについてはその作曲契機がはっきりしているのに対し、今回ご紹介するポストホルン・セレナードの方は、それが定かでありません。

 

ただ、これが1779年8月3日にザルツブルクで成ったことは分かっており、この時期と作品の内容から、色々な推測が行われています。

 

その一つに、モーツァルト研究家アルフレート・アインシュタインによる、「当時、長年の対立・軋轢が一層激しくなっていたザルツブルク大司教コロレードとの関係を象徴的に音楽で表現したのではないか――」というものがあります。

 

もっとも、これを裏付ける具体的資料はなく、現状はあくまでアインシュタインの慧眼とインスピレーションの生み出した一説に留まっていると言うべきでしょう。

 

 

 


本作の作曲契機に関する微かな拠り所としては、「旅行中に耳にした郵便馬車のホルンの旋律をいくつかの楽章で用いた」とのモーツァルト自身の手紙における記述と、姉ナンネルの日記にやはりモーツァルトが書き入れた「最新のフィナールムジーク」という言葉があり、これらを併せ鑑みると、「大学卒業式典のための作品で、ポストホルンは卒業生の社会への旅立ちの象徴として用いられた――」との可能性に行きつくように思います。

 

実際、第1楽章が「アダージョ・マエストーソ(Adagio Maestoso)」の序奏に続き、「アレグロ・コン・スピーリト(Allegro con Spirito:精神的に)」と指示されていること、および第5楽章が深く暗いニ短調を採っていることなどからして、園遊会・親睦会の類より一段高い式典のために書かれたものであることはまず間違いないでしょう。

 


大きな規模のセレナードらしく、この「K.320 ポストホルン」も、交響的な楽章と協奏的なそれとから構成されており、モーツァルト自身、本作の第1, 5および7楽章から成る交響曲をフォン・フュルステンベルク公爵に献呈したとされています。

 

しかし、私は個人的に、本作の特質は寧ろ協奏的楽章にあると考えます。

 

それも、"ハフナー"を含む多くのセレナードが、ヴァイオリンを主とする弦楽器を前面に立てているのに対し、"ポストホルン"で主役を務めるのは、この楽器をはじめとする多彩な管である点を、看過すべきでないでしょう。

 

それが特に顕著に聴かれるのは、"コンチェルタンテ"と明示された第2楽章と、第3楽章、そしてポストホルンが高らかに響く第6楽章です。

 


ポストホルン・セレナードの作曲に先立つマンハイム・パリ旅行において、モーツァルトは望む職を得ることができなかったばかりか、アロイジア・ウェーバーに失恋した上、母親を喪うという散々な目に遭ったのですが、音楽的収穫は極めて豊かであったことは間違いありません。

 

これは無論、管楽器の扱いについても言えることで、以後、オペラにおける絶妙な感情表現は固より、セレナード第10番、オーボエ四重奏曲、ホルン協奏曲・五重奏曲、そしてクラリネット五重奏曲・協奏曲といった至高の作品へと繋がっていくのです。

 


☆セレナード 第9番 ニ長調 K.320 "ポストホルン"

 

第1楽章 アダージョ・マエストーソ(Adagio maestoso)-アレグロ・コン・スピーリト(Allegro con spirito)
第2楽章 メヌエット:アレグレット(Menuetto: Allegretto)
第3楽章 コンチェルタンテ:アンダンテ・グラツィオーソ(Concertante: Andante grazioso)
第4楽章 ロンドー:アレグロ・マ・ノン・トロッポ(Rondo: Allegro ma non troppo)
第5楽章 アンダンティーノ(Andantino)
第6楽章 メヌエット(Menuetto)
第7楽章 フィナーレ:プレスト(Finale: Presto)

 

https://www.youtube.com/watch?v=gUQy2PtNiek

 

 

Mozartゆかりの都市(4)―ウィーン

現在のオーストリアの首都、ウィーンについては、あらためて多言を弄する必要はないでしょう。

 

長い歴史と、それを通じて培われた文化が街全体に満ち溢れており、シェーンブルン宮殿・シュテファン大聖堂・美術史博物館そして国立歌劇場など、一般的観光客は固より、美術や音楽の愛好家にとっても、訪れるべき場所は枚挙に暇がありません。

 

ウィーン国立歌劇場

 

 

モーツァルトが、後に定住し、やがて生涯の幕を閉じることとなるこのウィーンを初めて訪れたのは、1762年10月、6歳の時のことです。

 

例によって、息子の音楽的天才を高位の身分の人々に披露し、援助や庇護を得ようというレオポルトの目論見の下、その父親に連れられてのことでした。

 

当時のウィーンは、人口こそ20万に満たず、それぞれ55万人、70万人を擁したパリ、ロンドンには遠く及びませんでしたが、神聖ローマ帝国の都としての名声は遍くヨーロッパに行き渡っており、ここに足場を得ることができれば、音楽家としての前途が大きく開けることはまず間違い――レオポルトはそう考えたのでしょう。

 

そして10月13日、シェーンブルン宮殿において、フランツ1世およびマリア・テレジアというこの上ない貴顕人士の御前で、姉ナンネルとともに演奏する栄誉は得られたのですが、如何せん、二人ともまだ幼な過ぎ、成果としては単にその才能の一端を知ってもらえただけでした。

 

なお、その場には、後日成人したモーツァルトと少なからぬかかわりを持つこととなる、後のヨーゼフ二世も臨席しており、また、ピアノへ歩み寄ろうとして転んでしまったモーツァルトが、自分を助け起こしてくれた皇帝一家の末娘マリア・アントーニア、すなわち将来のルイ16世王妃マリー・アントワネットに対してプロポーズしたとの逸話も、この際のことです。

 

 

 


それからほぼ5年後の1767年9月、モーツァルト一家は再びウィーンへと向かいました。

 

この旅行の目的は、二つあったと考えられています。

 

まず、ヨーゼファ皇女とナポリ王フェルディナンド4世との成婚に際し、この地に集まるはずの王侯貴族に、ナンネルとウォルフガングの演奏をあらためて披露し、その楽才を認めてもらうこと。

 

そしてもう一つは、上とも関係しますが、ヴォルフガングにオペラを作曲させ、上演することです。

 

しかし、前者については、ヨーゼファ皇女が当時ウィーンで猛威を振るっていた天然痘に罹り、亡くなってしまったため果たすことはできず、それどころか、この病が自分たちに及ぶのを恐れて一旦この地を去り、非難した先のオルミュッツで、ヴォルフガングに発熱・発疹が出てしまったのです。

 

一時ヴォルフガングは人事不詳に陥ったと伝えられていますが、幸いその後快方へ向かい、翌1768年の1月にウィーンへ戻ることができ、息子の健康が完全に回復するのを待って、レオポルトは第二の目的、オペラの作曲と上演のための奔走を始めます。

 

そして、皇帝ヨーゼフ2世の賛同を得ることに成功し、ヴォルフガングは「ラ・フィンタ・センプリ―チェ(偽りのばか娘) K.51(46a)」を見事に書き上げたのですが、幼い子どもの驚異的才能に対する嫉妬、および権益欲からでしょう、広い層の音楽関係者による組織的な妨害に遭遇し、結局オペラ上演という目的も水泡に帰してしまったのです。

 

ただ、足掛け1年以上に亘ったこの時のウィーン滞在では、上記オペラに加え、いくつかの交響曲・歌曲とジングシュピール(歌芝居)「バスティアンとバスティエンヌ K.50()46b)」が生まれ、さらに「ミサ・ブレヴィス ト長調 K.49(47d)」「ミサ・ソレムニス ハ短調 K.139(47a) "孤児院ミサ"」という二つのミサ曲も書かれました。

 

特に最後の作品は、初めに付されたケッヘル番号からも窺える通り、わずか11歳の少年の手になるとはとても思えない、極めて充実した内容と高い完成度を見せており、モーツァルトの数ある宗教音楽の中でも顕著な光輝を放っています。

 

 

 


さて、三度目のウィーン訪問は、1773年の7月から9月にかけて行われました。

 

モーツァルトも17歳という青年に達し、ザルツブルクという小さな町で音楽に理解のない大司教に仕えることの辛さを痛感していた父子は、ウィーンにおいて然るべき地位を得ようとしたのでしょう。

 

その意図を胸に抱いてマリア・テレジアに謁見した際、女帝から非常に好意を持って迎えられたことを、レオポルトは手紙に記しています。

 

しかし、就職についての具体的な成果は得られず、反面、この時も芸術面においては、就職活動と絡んで、また、ヨーゼフ・ハイドンの作品9, 17, 20からの触発もあり、「ウィーン四重奏曲」と呼ばれる、第8番(K.168)から第13番(K.173)までの6つの弦楽四重奏曲などが生み出されました。

 


そして1781年3月――

 

選帝侯カール・テオドールの依頼により作曲したオペラ・セリア「クレタの王イドメネオ K.366」の仕上げと上演のためミュンヘンに滞在していたモーツァルトは、ウィーンから呼び出しを受けました。

 

その命令を発したのは、前年の11月29日に没した女帝マリア・テレジアの葬儀のためウィーンへ来ていた、ザルツブルク大司教コロレード。

 

雇い主の命とあって、モーツァルトは急いで駆け付けましたが、そこでの扱われ方から、大司教の下僕、単なるお飾りという自分の立場を改めて思い知らされ、憤懣が爆発。

 

大司教、およびその支配するザルツブルクと完全に決別することを決心したのです。

 

この際、コロレードの側近だったアルコ伯爵は、ウィーンの人々が如何に気まぐれ、移り気であるかを説いて、大司教の元に留まるよう勧めましたが、モーツァルトの決心を翻すことはできませんでした。

 

 

こうして独立した音楽家としてウィーンで活動を始めたモーツァルトは、翌年には嘗て失恋したアロイジアの妹、コンスタンツェを妻として迎えて一家を構え、仕事、延いては収入の方も、しばらくは順調な推移を辿りましたが、やがて、先のアルコ伯爵の言葉が真であったことを、身をもって知ることになったのです。

 

その時、「伯爵の忠告に従っていればよかった――」とモーツァルトは後悔したかどうか。

 

いや、しなかったと私は思います。