モーツァルト・カフェ|名曲・おすすめ作品・エピソードなど

不世出の天才作曲家W.A.モーツァルト。その名曲・代表作・おすすめ作品をはじめ、生涯や音楽上のエピソードなどをご紹介します。

Mozartゆかりの都市(2)―ミュンヘン

息子ヴォルフガングの音楽の天才に気付いたレオポルトは、これを育み開花させることを神から与えられた自分の使命と考え、早くからその実践に取り掛かりました。

 

音楽そのものはもちろん、音楽家として世を渡っていくのに必要な一般教養についても、幼いヴォルフガングに自ら教育を施したのです。

 

しかし、ヴォルフガングの才能を十全に伸ばし、そこから豊潤な果実を摘み取るには、彼らの住んでいたザルツブルクは小さすぎました。

 

そこでレオポルトは、ヨーロッパの王侯貴族や音楽の大家、さらには一般民衆に息子の楽才を披露し、彼らの評価と後援、さらには名声や金銭、地位を得ようと、ヴォルフガングを(時には姉のナンネルも)連れて、当時の大都会や音楽の都を訪れることを企てたのです。

 


その最初が、1762年1月、モーツァルトが6歳になる前後のミュンヘン旅行でした。

 

ミュンヘンは、ザルツブルクの西北西約150kmに位置しており、小手調べとして恰好な都市とレオポルトは考えたのかもしれません。

 

当時ミュンヘンは、人口こそ約3万と少なかったものの、バイエルン選帝侯領の首都として繁栄を誇っており、ここでヴォルフガングと姉ナンネルは、進歩的な思想を持ち芸術に対する理解も深い、選帝侯マクシミリアン3世・ヨーゼフの御前で演奏しました。

 

ただ、この旅行でのミュヘンへの滞在期間は3週間ほどと短く、モーツァルトもまだ幼かったため、楽曲は生まれませんでした。

 

これを含め、モーツァルトは生涯に7回、ミュンヘンを訪れます。

 

 

 


モーツァルトが二度目にこの地を踏んだのは、「西方への大旅行」と呼ばれる、やはりレオポルトに率いられての旅行の帰路のことで、1766年11月に立ち寄り、再びマクシミリアン3世の御前で演奏しています。

 


それから8年を経た1774年、18歳になった青年モーツァルトの元に、マクシミリアン3世から、今度は謝肉祭用のイタリア語オペラの作曲依頼が届きます。

 

そして生まれたのが、オペラ・ブッファ(喜歌劇)「偽の女庭師 K.196」。

 

モーツァルトはこの作品を携え、この時もまだ父親と共に(さすがにもう、父親に連れられて――と言うべきではないでしょうけれど)、そのオペラ上演を目的としてミュンヘンを訪れました。

 


さらに3年後の1777年、宮廷音楽家としてコロレード大司教に仕える生活に嫌気が差したモーツァルトは、自らの才能を遺憾なく発揮できる場を求めて「マンハイム―パリ旅行」へと足を踏み出しましたが、これに同行したのは、レオポルトではなく、母親のアンナ・マリーア、そして、この旅行の最初と最後に、ミュンヘンに滞在したのです。

 

しかし、この旅行で目論んでいた新天地の開拓は果たせず、かてて加えて、アロイジア・ウェーバーに対する失恋、母親の死にまで見舞われ、正に失意の極みの裡、1779年の帰郷に終わったのでした。

 

この1年5ヵ月に亘る旅の間には数多の優れた作品が生み出されましたが、ミュンヘン滞在中に書かれたものとしては、「ピアノのための前奏曲 ハ長調 K.395(284a)」が知られているのみです。

 


仕方なくザルツブルクでの宮仕えに戻り、恐らく気持ちの晴れない生活を送っていたモーツァルトの元に、1780年、新たに選帝侯となったカール・テオドールからオペラの注文がもたらされました。

 

このオペラは翌年の謝肉祭のためのもので、「クレタの王イドメネオ(Idomeneo)」として、モーツァルトの作品中、現在も重要な位置を占めています。

 

モーツァルトは10月から作曲を開始しますが、オペラの完成には現地での最終調整が必要であり、そのための6週間の休暇をモーツァルトは大司教コロレードに願い出ます。

 

大司教はそんな不躾な若造を苦々しく思っていたものの、選帝侯からの依頼ゆえ認めざるを得ず、モーツァルトは11月5日にザルツブルクを出発して8日にミュンヘンの土を踏んだのです。

 

この際にはまた、俳俳優・歌手・演出家・脚本家として劇団を率いるエマヌエル・シカネーダーのために、レチタティーヴォとアリア「おお愛よ、なぜそんな恐ろしい冗談を言うのか。おののけ、愚かな心よ、そして苦しめ! K.365a(K.Anh.11a)」を書いています。

 

なお、最晩年のオペラ「魔笛 K.620」はこのシカネーダーの依頼によるもので、台本も彼が執筆しました。

 

 

 


その後、モーツァルトは大司教と決別してザルツブルクを離れ、ウィーンに居を構えます。

 

そして、最後にミュンヘンを訪れたのは、既にウィーンの聴衆の人気を失い、経済的窮乏に陥っていた1790年秋のことで、レオポルド2世の戴冠式がフランクフルトで実施されるのを機に、それに付随する祝祭での稼ぎを当て込んでその地へ行った帰路でのことでした。

 

この場でのエピソードはほとんど伝わっていませんが、フランクフルトでは、何とかコンサートを行うことができ、その際、シュタインのハンマークラヴィーアを用いて、「ピアノ協奏曲第26番 ニ長調 K.537」が演奏されたことに因んで、同曲が「戴冠式」と呼ばれるようになったのです。

 

ただし、「名誉の面ではよかったけれど、報酬の点ではひどい結果に終わった。」と妻コンスタンツェに書き送っていることから見て取れるように、十分な成功とはいきませんでした。

 


さて、現在のミュンヘンについては、あらためてご紹介すまでもないでしょう。

 

中世から続く古都にしてドイツ第三の都市、ビールの好きな方は、毎年実施されるオクトーバーフェストや1589年に建てられたビアホール、ホーフブロイハウスがすぐ頭に浮かぶはず。

 

また、教会巡りや新旧の街並みの対照に浸るのもまた一興で、美術館もアルテ(alte=旧)・ノイエ(neue=新)両ピナコテークが、質・量とも驚嘆すべきコレクションを蔵して訪問者を待っています。

 

ミュンヘン風景

 

 

弦楽四重奏曲

モーツァルトの作品のなかで、派手さはないものの極めて重要な位置を占めるジャンル……

 

と言えば、それは弦楽四重奏曲でしょう。

 

モーツァルトは、全部で23曲の弦楽四重奏曲を残し、作曲年代は1770年から1790年にわたっています。

 

因みに、他の弦楽室内楽曲としては、いくつかの二重・三重奏曲と6曲の五重奏曲があり、重要度の高い後者もまた、1773年-1791年と、モーツァルトの青春時代から最晩年まで、作曲家として活躍した全期間を通じて手がけられたという特徴を四重奏曲と共有しています。


四重奏曲に話を戻しましょう。

 

1770年、14歳の時に、モーツァルトは最初のイタリア旅行を行いましたが、その際、ローディという土地で記念すべき「第1番 ト長調 K.80(73f)」を作曲しました。

 

その後、もう一つのイタリア旅行を間に挟み、1772年に第3回イタリア旅行へ父親レオポルトとともに出発します。

 

これは、ミラノ宮廷から依頼されたオペラ「ルーチョ・シッラ」を上演するための旅行でしたが、そのときレオポルトはザルツブルクの家族に宛てて次のように近況を報告しています。

 

…ヴォルフガンクはあんまり退屈なので弦楽四重奏曲を書いています…

 

現在「ミラノ四重奏曲」と呼ばれる第2番から第7番までの6曲の連作、後の傑作群の萌芽は、ミラノでの「退屈さ」から生まれ出でたというわけです。

 

このミラノ四重奏曲は、イタリアの弦楽四重奏曲の影響を強く受けており、3楽章からなるそのスタイルも基本的にイタリアのものを踏襲しています。

 

 

 

 


さらに、ミラノ四重奏曲からそれほど間を空けずに、モーツァルトは再び6曲の連作を作曲します。

 

これらも作曲地の名前を冠して「ウィーン四重奏曲」と総称されていますが、作曲の契機は退屈さではなく、同郷の先輩作曲家ヨーゼフ・ハイドンの作品9, 17, 20に触発されて生み出されました。

 

ウィーン四重奏曲はすべて4楽章からなり、始めと終わりが急速楽章、中間の2つの楽章には緩徐楽章とメヌエットが順不同でおかれるという、ハイドンが確立したスタイルをとっており、この後のモーツァルトの弦楽四重奏曲の基礎ともなりました。

 


そして、ウィーン四重奏曲からおよそ10年を経た、1782年の末から1785年にかけて、モーツァルトの弦楽四重奏曲の中で最も完成度が高く、また有名な「ハイドン四重奏曲(ハイドン・セット)」が作曲されたのです。

 

ハイドンは、弦楽四重奏曲の集大成ともいうべき作品33「ロシア四重奏曲」を1781年に完成し、翌年に出版しており、ハイドン・セットもまた、先のウィーン四重奏曲と同様、このハイドンの作品から強い刺激を受けました。

 

作品内容から看取される印象がそれを物語るだけではなく、モーツァルトがハイドン・セットを1785年に出版する際、この先達への敬意を込めて自作の献辞を添えていることが、それを明確に裏付けています。

 

一方、ハイドンの方は、モーツァルトのこの作品を聴いて、「仮にモーツァルトが弦楽四重奏曲とレクイエム以外の作品を残さなかったとしても、彼の名は不滅のものとなっただろう、」と評したと伝えられています。


ところで、ハイドン・セットで最高峰を極めた感が強いため、見落とされがちですが、モーツァルトはその後にも4曲の弦楽四重奏曲を書きました。

 

まず、「ホフマイスター」と呼ばれる1786年の「第20番 ニ長調 K.499」。

 

それから、チェロの名手だったプロシア王ヴィルヘルム・フリードリヒ2世のために書いた3曲の連作「プロシア王セット」がそれです。

 


では、今回も最後に動画を一つご紹介して稿を終えましょう。

 

それは、私が一番好きなモーツァルトの弦楽四重奏曲であるハイドン・セットの5番、すなわち「第18番 イ長調 K.464」です。

 

強い個性を具えた第17番「狩」、第19番「不協和音」に挟まれていることもあり、ハイドン・セットの中では一番地味かもしれません。

 

しかし、モーツァルトの「天国の調」たるイ長調で奏される、霞がかったような独特の静かな美しさに、思わず酔い痴れてしまう方は少なくないはずです。

 

弦楽四重奏曲 第18番 イ長調 K.464
第1楽章 Allegro(アレグロ)
第2楽章 Menuetto(メヌエット)
第3楽章 Andante(アンダンテ)
第4楽章 Allegro non troppo(アレグロ・ノン・トロッポ)