モーツァルトは、その生涯に27曲のピアノ協奏曲を残しています。
「モーツァルトの弦楽協奏曲」でも少し書いたように、モーツァルトは作曲家としてだけではなく、演奏家(ピアニスト)としての顔も持っており、特にウィーンに定住してからは、自ら舞台に立つ演奏会を企画・実行しました。
そして、ピアノ協奏曲はその中心演目をなしたため、協奏曲のうち、これがもっとも多く書かれたのです。
さて、今回は、そんなピアノ協奏曲全体をざッと概観してみたいと思います。
ただ、記述の有無、さらに多寡が、作品の価値や重要度を現しているわけでないことは、念のため注記しておきます。
実際、モーツァルトのピアノ協奏曲に関しては、いずれすべて「名曲」としてご紹介することになるでしょう。
第1番~第4番
モーツァルトのピアノ協奏曲は、1767年、11歳の時に他の作曲家のピアノ・ソナタを4つの協奏曲に編曲したものから始まります。
これらの作品の書かれたのは、ウィーンへの旅行が目の前に迫っていた時期にあたり、そこで演奏するレパートリーとして、父親のレオポルトがヴォルフガンクに急遽作曲させたものと考えられています。
モーツァルト固有の作品とはいえないかもしれませんが、後の発展を語る上でははずせない作品群です。
第5番 ニ長調 K.175
1773年、モーツァルトは初めて本格的なピアノ協奏曲を作曲します。
17歳という年齢は、一般的な基準からすれば早熟に違いありません。
しかし、幼時からオペラにさえ手を染めているモーツァルトにしては、意外と遅いこのジャンルへのデビューといえるかもしれません。
第7番 ヘ長調 K.242
三台のピアノのための協奏曲。
ロドロン家の三姉妹のために作られたことにちなんで「ロドロン協奏曲」と呼ばれることがあります。
技術的に未熟な奏者という、作曲家にとっては大きな枷を被っての作品ながら、弾くもののみならず聴く者にも大きな満足を与える作品に仕上げられているのは、流石としか言いようがありません。
第9番 変ホ長調 K.271
1777年1月、ザルツブルク宮廷音楽家としての生活に耐えられなくなっていた時期、フランスから来た女流ピアニスト「ジュノム譲」のために書かれた――と、人物の実在性が確認されないまま約100年間定説となっていましたが、今世紀になって、正しくは「ジュナミ夫人」に呈されたものであることが究明された、曰くつきの作品です。
そのエピソードは措くとして、ここでモーツァルトは大きな飛躍を遂げました。
それは単にピアノ協奏曲の範囲にとどまらず、規模の大きさ、深い芸術性、高い完成度を考えても、ザルツブルク時代のモーツァルトの全作品中でもひときわ高く聳える峻峰となっています。
第14番 変ホ長調 K.449
ザルツブルク大司教と決別し、ウィーンに居を構えて独立した芸術家としての活動を開始したモーツァルトは、自分の作品を自ら演奏して聴かせる予約演奏会を企画し、それを実現して聴衆から大きな喝采を博しました。
このような成功は、芸術塚としての自信・自負をモーツァルトに目覚めさせ、自分の作品を目録に記録し始めます。
1784年、彼が28歳の時のことで、その目録に記された記念すべき最初の作品が、ピアノ協奏曲第14番 変ホ長調 K.449でした。
この曲は音楽史的に有名なだけではなく、ここでまた、モーツァルトのピアノ協奏曲が大きな発展を遂げているという点で、エポックメイキングな作品と言えます。
なお、この年、モーツァルトは6つのピアノ協奏曲を書いています。
第20番 ニ短調 K.466
ピアノ協奏曲における初の短調作品。
モーツァルトにとっての「死の調」ニ短調をとる第1, 2楽章のデモーニッシュな雰囲気と静謐な緩徐楽章との対比が絶妙です。
ベートーヴェンもこの曲に深い愛着を持ち、自ら演奏するためのカデンツァを残しています。
第21番 ハ長調 K.467
20番とは対照的にアポロ的な明るさに溢れており、第二楽章は映画「短くも美しく燃え」の主題曲として耳にされた方も多いと思います。
モーツァルトには、あたかも対となるかのような作品のペアが少なからず見られ、これについてもいずれ稿を起こしたいと考えています。
第23番 イ長調 K.488
私の大好きなイ長調の名曲。
「僕の協奏曲にアダージョはいらない」と言ったモーツァルトですが、この曲の第二楽章には、ピアノ協奏曲唯一のアダージョが置かれています。
第24番 ハ短調 K.491
もう一つの短調ピアノ協奏曲。
情念の焔(ほむら)渦巻く20番とは対照的(21番とはまた別の特性において)に、氷の彫刻を思わせる冷徹ともいえる構成美に溢れ、そこにフルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、トランペットという多様な管楽器が見事な彩を添えます。
第26番 ニ長調 K.537
一時は時代の寵児としてもてはやされたモーツァルトですが、自己の芸術に重きを置き、ウィーンの聴衆の好みに迎合しなくなってから、予約演奏会の入りが芳しくなくなり、やがて1788年ごろには予約演奏会を開いてもほとんど人が集まらない状況に陥ります。
このような中、その演奏会用に作曲を開始されたK.537ですが、不遇な状況を反映してか、モーツァルトには珍しくなかなか完成に至りませんでした。
結局、レオポルト2世の戴冠式という大きなイベントがタイミングよく行われ、その祝典で演奏されることになってようやく日の目を見ます。
「戴冠式」という表題はこのエピソードに由来しているのです。
第27番 変ロ長調 K.595
死の前年に書かれた最後のピアノ協奏曲。
冒頭の反復音形は輪廻を思わせ、また、その落ち着いた曲調には、モーツァルトの死に対する諦観といったものが感じられます。
派手さはないものの、折に触れて非常に聴きたくなる不思議な魅力を持っています。
では、最後に動画を一つご紹介しましょう。
古い音源ですが、私がレコード(!)を聴いて衝撃を受けたパフォーマンスです。
☆ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 K.466
第1楽章 アレグロ(Allegro)
第2楽章 ロマンツェ(Romance)
第3楽章 ロンド:アレグロ・アッサイ(Rondo: Allegro assai)
https://www.youtube.com/watch?v=giZREb5E5l8