ディヴェルティメント第17番 ニ長調 K.334(320b) "ロービニッヒ"
過日、以下の記事でも書きましたが、クラシック音楽の作品ジャンルの一つとして、卒業や結婚といった比較的カジュアルな祝宴に彩を添えることを目的とし、主に室内において演奏されるディヴェルティメント(喜遊曲)があります。
その性格上、同種のものであるセレナードに比べ、楽器編成・作品規模共に小さく、また曲の趣きがより愉悦的となることも、先にご紹介した通りです。
これからお分かりのように、セレナード・ディヴェルティメントは、作曲家が自らのインスピレーションや創造力に刺激されて主体的に生み出すというより、貴族や富豪などからの注文を受け、それに応じて謂わば音楽を「仕立てる」場合が多くなります。
実際、これら両ジャンルは、貴族がその勢威を保ちながらも、市民階級が台頭してきた18世紀に大輪の花を開き、ちょうどその時代に生きたモーツァルトも、セレナード・ディヴェルティメントの作品を少なからず残しています。
その中の一曲が、今回ご紹介したい「ディヴェルティメント第17番 "ロービニッヒ" ニ長調 K.334(320b)」。
「第17番」というのは、このジャンルの作品に付された最大の番号ですが、例によってモーツァルト自身の手になるものではありません。
作曲年、および動機を明確に示す資料や記録はないものの、モーツァルトが父親レオポルトへ宛てて書いた手紙から、同郷のロービニッヒ夫人ヴィクトリアからの依頼で、同家の長男ジークムントが1780年7月にザルツブルク大学法学部を卒業する、その記念祝賀のための音楽として、1779年、あるいは翌年に書かれたと考えられています。
本作は以下の通り、ディヴェルティメントの標準である6つの楽章からなり、ホルン2に弦楽というシンプルな編成で奏されます。
第1楽章 アレグロ(Allegro)
第2楽章 アンダンテ(Andante)
第3楽章 メヌエット(Menuetto)
第4楽章 アダージョ(Adagio)
第5楽章 メヌエット(Menuetto)
第6楽章 ロンド:アレグロ(Rondo: Allegro)
このように表面的には典型的なディヴェルティメントの形式を踏襲しているものの、その曲調は徒な華やかさに終始したものではなく、無論、明るい色調を基本としてはいますけれど、そこには爽やかな寒色が仄かに含まれ、憂愁の翳りを添えていることが、第1楽章の主題旋律に早くも聴くことができます。
そして続く変奏曲形式の第2楽章は、喜遊曲と呼ぶには些か躊躇いを覚えるニ短調。
第3楽章は、俗に「モーツァルトのメヌエット」とも呼ばれる有名なものですが、これについても、さらにその後のアダージョ、第2メヌエット、ロンドも、単なる機会音楽の域を遥かに超えた高みが感じられるように思います。
この曲の成った1779-1780年頃は、ザルツブルク大司教に僕(しもべ)として仕えることに対する不満・嫌気と連繋する形で、モーツァルトの内部に芸術家としての意識が漸次高まって来た時期であり、親しい知人からの注文に応じて作曲するにしても、作曲家としての矜持、良心に従い、その場限りで色褪せたりしない、普遍的価値を具えた作品を書こうとの想いが強く作用したことが、上の理由の一つであると言ってよいのではないでしょうか。
本作以降、モーツァルトによるディヴェルティメントの作曲が急減しているという事実も、ここに付記しておきます。
「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」などと同様、オーケストラでも室内楽でも演奏され、それぞれ別種の味わいを愉しめますが、ここでは最もシンプルな編成でのパフォーマンスをお聴き頂きましょう。
https://www.youtube.com/watch?v=OKQb1iP9gDk
Mozartの出会った人々(5)―フランツ・ヨーゼフ・ハイドン
モーツァルトが如何に音楽的天才に恵まれていたとしても、彼一個で己の才を見出し、それを育み磨いてあのような高みへ到達したわけではなく、偉大なる先達や、数多の同時代の音楽家から、さまざまな形で指導や影響を受けました。
その筆頭として、先ず父親レオポルトを挙げるべきでしょうし、先に「Mozartの出会った人々(4)―ゴットフリート・ファン・スヴィーテン(男爵)」においてご紹介したように、ヨハン・セバスティアン・バッハやゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルからは、作品を通じて深甚な啓発を蒙ったわけですが、同じ時代に生きた音楽家の中で、モーツァルトに最も大きな影響を与えた人物は、レオポルトを除けばヨーゼフ・ハイドン(Franz Joseph Haydn、1732年3月31日-1809年5月31日)と言ってよいと思います。
ハンガリー王国領に接していたニーダーエスターライヒ州の農村に、荷車や車輪の製造・修理などを仕事とする車大工を父として生まれたハイドンは、6歳の時、親類が校長を勤めていた音楽学校で学び始めます。
1740年には、ウィーンのシュテファン大聖堂の聖歌隊に加入し、少年時代を通じて活動しましたが、1749年、声変わりを来たすと解雇され、以後約8年間は定職がありませんでした。
しかしその時期、教会での臨時の歌い手、ヴァイオリンやオルガンの奏者などとして生計を立てながら作曲の勉強に努め、やがてその成果は「ミサ・ブレヴィス ヘ長調 Hob.XXII:1」として結実します。
その後次第に音楽家として知られるようになったハイドンは、1757年頃にはボヘミアのカール・モルツィン伯爵の宮廷に楽長の職を得、さらに1761年、中世から続くハンガリーの名門貴族、エステルハージ家に副楽長として迎らえれ、5年後には楽長に昇格して、以後58歳まで、実に30年に近い長きに亘りこの地位を保ち続けたのです。
この経歴が示す通り、ハイドンは自分の限られた才能を、地道にこつこつと強め高め、それによって得た職業的地位を大事に守り通しましたが、これは、溢れるほどの才能に恵まれて生を受け、父親の尽力もあって幼時から時代の寵児として世間に持て囃されながら、やがては自己の、良くも悪くもさまざまな欲求を抑えられずに世間から見放され、貧窮の裡に35年に満たない短い生涯を閉じたモーツァルトとは大きな対照を見せています。
かくの如き生き方の相違は、両者の作品にも大きく反映しており、素朴、実直、堅実といった言葉で形容されることの多いハイドンの作品に対し、モーツァルトのそれには、繊細、華麗、優雅といった修飾語がよく冠されることはご存じのとおりです。
しかしながら、音楽、延いては芸術の広さ、深さ、そして多様性ゆえ、このような相反は決して相容れないものではなく、ハイドンの存在により、モーツァルトの音楽が一層豊穣になったことは間違いありません。
そのハイドンの偉大な業績の筆頭は、ソナタ形式を確立し、それを膨大な交響曲、弦楽四重奏曲、およびクラヴィーアなどのソナタ作品として具現したことでしょう。
モーツァルトが実際にハイドンに出会ったのは何時か――という問題には、未だ解が与えられていないようですが、それより前、1774年の暮れから翌75年初めに、モーツァルトが旅先のミュンヘンで書いた第1番 K.279(189d)から第6番 K.284(205b)にハイドンの影響が看取されることは、音楽学者にしてモーツァルト研究の大家であるアルフレート・アインシュタインも指摘しています。
そして、ハイドンが1772年に書いた6曲からなる弦楽四重奏曲集「太陽四重奏曲(作品20)」に触発される形でモーツァルトもこのジャンルに本格的に乗り出し、さらには再びハイドンの「ロシア四重奏曲集(作品33)」に深い感銘と大きな啓発を受け、全音楽史を通じても最も優れた弦楽四重奏曲群「ハイドン・セット」を書き上げたことは、以下の記事でもご紹介した通りです。
モーツァルトはこの「ハイドン・セット」の出版に先立ち、尊敬・敬愛する先輩音楽家を自宅に招いて自らヴィオラの弓を取って作品を披露しました。
これを聴いて、ハイドンはレオポルトに次のように感慨を述べたと伝えられています。
「誠実な人間として神にかけて申しますが、あなたのご子息は私が直接に、あるいは評判によって知っている作曲家の中で、最も偉大な方です。彼は優れた趣味を持ち、さらには、最も優れた作曲の知識を具えています。」
そしてモーツァルトの方は、「ハイドン・セット」の出版に際し、次の献辞を添えました。
「自分の子供を広い世間に送り出そうと決心した父親は、それを、幸運にも自分の最上の友人となった高名な方の保護と指導にゆだねるのが当然のことだと考えました。高名なお方、そして私のもっとも親愛なる友人よ、これが取りも直さず、私の6人の息子です。」
二人が如何に相手の存在に重きを置いていたかは、このエピソードが如実に語っていると言えるでしょう。
さて、1790年、ハイドンはロンドンの音楽興行師から、交響曲とオペラを上演しないかとの誘いを受け、これに応じることにしました。
そしてその年も押し迫った12月24日、ロンドンへと渡るハイドンの送別の宴に出席したモーツァルトは、「これがあなたに会う最後となるでしょう。」と感懐を述べ、悲しくもそれが現実となってしまったのでした。
モーツァルトの没したのは、翌1791年の12月5日。
因みに、ハイドンを招いた興行師は、モーツァルトの「交響曲 第41番 ハ長調 K.551」に"ジュピター"と名付けた、ヨハン・ペーター・ザロモンその人です。